HISTORICAL PERSON · 211年没

周瑜

孫策・孫権に仕えた武将。赤壁の戦いで曹操の大軍を火計で破り呉の存立を決定づけ、風采も優れ「周郎」と讃えられた。

生涯
211年没
死亡地
中華人民共和国(湖南省 / 岳陽市)
出生地
中華人民共和国(舒城県)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖南省)

伝記

周瑜は、中国後漢末期の武将である。字は公瑾、渾名は周郎。揚州廬江郡舒県の人で、高祖父の周栄は尚書令、従祖父の周景と従父の周忠は三公の太尉を務め、父の周異も洛陽県令となった名家の出である。成人すると立派な風采を備えた。孫堅が反董卓の連合軍に加わったころ、その子孫策の名声を聞いて寿春で面会し、同い年の二人は親交を結んだ。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。

興平元年(194年)、袁術の下にいた孫策が劉繇を攻めて江東へ軍を挙げると、周瑜は孫策の誘いに応じて兵を連れて従い、横江・当利、秣陵を攻略して曲阿で劉繇を敗走させた。孫策は丹陽の守備を周瑜に任せたが、袁術は周瑜を配下に迎えようとした。周瑜は袁術の先行きに見切りをつけ、居巣県長を願って離れ、建安3年(198年)ごろ呉に帰還した。このとき魯粛と親交を結び、呉への亡命にも同行させている。孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将に任じて兵2000人と騎馬50匹を与え、軍楽隊や住居も授けた。当時24歳の周瑜は周郎と呼ばれて称えられた。建安4年(199年)には中護軍となって江夏太守の職務を任され、皖を落とした際に捕らえた喬公の二人の娘のうち、孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えた。劉勲を破り、江夏を討ち、豫章と廬陵も平定して、巴丘に駐屯した。

建安5年(200年)に孫策が急逝して孫権が後を継ぐと、周瑜は張昭とともに諸務を取り仕切った。孫権を軽んじる者もいたが、周瑜が率先して臣下の礼をとって規範を示したため、周囲も従うようになった。周瑜は孫権の資質と江南の天運を挙げて魯粛を説得し、推挙して孫権に仕えさせた。建安7年(202年)、曹操が人質を送るよう命じてきたときには、周瑜は人質を送らず力を蓄えて情勢を見極めるべきだと述べ、孫権の母の呉氏も同調して、孫権はこれに従った。その後、山越の討伐や、黄祖の部将鄧龍の迎撃で戦功を挙げ、建安13年(208年)春の江夏討伐では前部大督に任じられた。

同年9月、曹操が荊州に侵攻して劉琮を降伏させると、孫権陣営は降伏論が多数を占めた。周瑜は鄱陽への使者から呼び戻され、曹操を漢の賊と呼んで抗戦を主張し、曹操軍の不利を説いた。孫権は決断し、周瑜や程普らに3万の精兵を与えた。周瑜は樊口で劉備と会い、兵が3万と聞いて少ないと言う劉備に、これで充分だと答えた。当時曹操軍には疫病が出ており、一度の交戦で長江北岸へ退いた。周瑜は黄蓋の進言を採って火攻めを計画し、降伏を偽って近づいた黄蓋が曹操軍の船団に火を放つと、火は岸の陣営にまで燃え広がった。周瑜らは追撃して曹操軍を破り、曹操は曹仁らを江陵などに残して北へ撤退した(赤壁の戦い)。

戦後、周瑜は江陵の曹仁と戦い、甘寧を夷陵へ進ませて敵を分断し、右のわき腹に流れ矢を受けながらも戦って曹仁を退けた。偏将軍・南郡太守となり、都亭侯に封じられた。周瑜は劉備を籠絡して関羽・張飛と分断するよう孫権に献策したが、退けられた。さらに益州を占領し、馬超と結び、自らは襄陽から曹操を攻める計画を孫権に認めさせたが、遠征の途上の巴丘で急逝した。36歳であった。孫権は大いに嘆き、柩を蕪湖まで出迎えて葬儀の費用をすべて負担した。後に皇帝となった孫権は、周瑜がいなければ皇帝になれなかったと嘆いたという。陳寿は、周瑜と魯粛が人々の迷いの中で明確な見通しを立てたのを非凡な才能によると評した。音楽に精通し、曲に誤りがあれば周郎が振り向くと歌われたという。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物