HISTORICAL PERSON · 774年没

Abu 'Amr ibn al-'Ala'

クルアーンの七読誦法の伝承者の一人で、バスラの読誦家。アラビア語文法のバスラ学派を創始し、文法学者としても知られた。

生涯
774年没
死亡地
イラク共和国(ナジャフ県 / クーファ)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
イラク共和国(ナジャフ県)

伝記

アブー・アムル・イブン・アラーは、八世紀のバスラで活動したクルアーン読誦者であり、アラビア語の文法学者、言語学者、古代アラブ詩の伝承者である。一般にはザッバーン・イブン・アラー・イブン・アンマール・マーズィニー・バスリーと同定されるが、本名については多くの形が伝えられ、ザッバーンが最も有力とされる。タミーム族のマーズィン家に連なることからマーズィニー、生涯の大半をバスラで過ごしたことからバスリーの称がある。生年と生地には異説が多い。最も広まった伝承は、ヒジュラ暦七〇年(689年)にメッカで生まれたとするものだが、五五年(675年)、六五年(685年)、六八年(688年)も伝わり、バスラやペルシア南部の地を生地とする説もある。幼少期の情報は乏しく食い違う。本人に帰される話では、二十歳を少し過ぎたころ、父とともにイラクからイエメンへ逃れたという。ハッジャージュ・イブン・ユースフの手の者による迫害を避けるためで、砂漠でハッジャージュの死を知らされて二人はバスラへ戻ったとされる。この話が正しければ、幼い頃はヒジャーズで過ごし、メッカやメディナで学んだのちバスラに定住した可能性がある。

学問はクルアーンの読誦、ハディース、文法、アラビア語とその文学に及んだ。ムジャーヒド・イブン・ジャブル、サイード・イブン・ジュバイル、アター・イブン・アビー・ラバーフ、アースィム・イブン・バフダラ、バスラのハサンなど、ヒジャーズとイラクの多くの師に読誦を学んだ。ブラシェールは、読誦者としての修業が主にヒジャーズで始まり、のちにイラクで文法活動や読誦の伝統に触れて豊かになったとみる。バスラに落ち着いてからは、この町をほとんど離れなかった。高齢での巡礼と、最期のクーファ行きが知られる程度である。

その読誦は、ヒジャーズとイラクの伝統の要素を組み合わせた独自の体系だった。バスラで主流となり、以前に広まっていたバスラのハサンに帰される体系に取って代わり、のちに七つの正統読誦の一つに数えられた。誇張を避けて素直に読むことを好んだと伝えられ、イマーラの諸形式、一部のハムザの置き換え、そして特色とされる大同化(イドガーム・アル・カビール)などが特徴である。当時すでにバスラの住民の多くが採用したといい、後世の著者は何世紀もこの町で優勢だったと述べる。のちにシリア、ヒジャーズ、イエメン、エジプトにも広まったが、次第にアースィムの読誦に場を譲った。伝承は主に弟子たち、さらに後の伝達者によって保たれた。

教え子には、ハリール・イブン・アフマド、アスマイー、アブー・ウバイダらがいて、バスラの言語学の発展を担う世代に影響を与えた。ハリールは彼に文法を学び、アスマイーとアブー・ウバイダはその言語知識の恩恵を受けた。シーバワイヒの著作にも名が現れる。アスマイーによれば、千もの文法上の問いを受けて、そのどれにも例を挙げて答えたという。ジャーヒリーヤ時代の詩やアラブの戦いの日々にも造詣が深く、アラブ人から直接、言語・詩・歴史の材料を集め、古詩の解釈と評価の権威となった。著作とされるものの多くは残らなかったが、知識は弟子を通じて後の言語学者や辞書編纂者の著作に残った。

没年は、ヒジュラ暦一五四年(771年)とする説が有力とされるが、一四七年、一四八年、一五五年、一五六年、一五七年、一五九年とも伝わる。ある伝承では、死の少し前にダマスカスの総督アブドゥルワッハーブ・イブン・イブラーヒームに援助を求めて旅し、帰路かクーファに着いてから亡くなったという。クーファで没し、同地に葬られたとされる。

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