HISTORICAL PERSON · 790年代没

韋応物

唐代中期の詩人で、別称は韋蘇州。玄宗に近衛士官として仕えたが、安史の乱後に職を失って勉学に励んだ。地方官を転々とし蘇州刺史も務めた。孟浩然や王維らと並ぶ自然詩の名手で、『韋蘇州集』が伝わる。

生涯
790年代没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 蘇州 (古代))
出生地
斉 (黄巣)(長安)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

韋応物は、中国・唐(中唐)の詩人である。生年は736年とも737年ごろともされ、没年は791年とも792年ともいわれる。京兆府杜陵県の出身で、別称は韋蘇州。蘇州の長官を務めたことから、この名で呼ばれるようになった。

家は北周以来の名門で、曾祖父の韋待価は則天武后の時代に宰相を務めた。若いころは太学に学んだとされる。十五歳のころに玄宗の近衛士官(三衛郎)となり、名門の出であったため科挙を受ける必要はなかった。玄宗の覚えはめでたかったが、気の強いところがあり、この時期の暮らしは放縦で乱れたものだったともいわれる。755年に安史の乱が起こって玄宗の時代が終わると職を失い、故郷に帰って貧窮した。ここで心を入れ替え、学問に励むようになった。

その後は下級の地方官を転々とした。洛陽県丞のときには、不正をはたらく軍兵を厳しく取り締まっている。以後は病気を理由に辞任したり、滁州刺史(784年)や江州刺史(785年)になったりと、官に就いては退くことを繰り返した。786年あるいは787年に蘇州刺史となり、792年まで在任したとされる。白居易が赴任してくると引退して寺院に寓居したという伝えもあり、白居易が敬った先達としても知られる。最期ははっきりしない。蘇州で792年に没したとする説がある一方、大和年間(827〜835年)まで生きて劉禹錫に官へ推薦されたともいわれるが、確証はない。

作風は、自然を詠んだ詩に巧みで、とくに自然の静けさや穏やかさを主題としたものが優れている。山水を描いた作品が大半を占め、五言古詩がもっとも高く評価される。5世紀の詩人陶淵明の強い影響を受けており、四庫全書の編者は、その詩を「素朴でありながら俗でなく、豊かでありながら衒学的でない」と評した。白居易はその詩を、自然の景色に触発された感興から生まれたものとし、「雅にして閑」と称えた。盛唐の孟浩然や王維の流れを受け継ぐとされ、柳宗元とあわせて「王孟韋柳」と並び称される。一方で、安史の乱前後の混乱した世相を作品に映したと見る読み方もあり、「滁州西澗」に描かれた、舟人のいない舟が流れる情景を、舵取りを欠いた国家の比喩とみる説もある。

交友では、尹尭藩と深い友情で結ばれ、劉長卿、丘丹、顧況、秦系、詩僧の皎然といった詩人や隠者が客として迎えられ、詩を交わしたという。詩は諸体に秀で、七言の歌行は旋律が流れるように美しく、五言の律詩は感情と表現がひと息に調和して続くと評される。作品には『幽居』(五言古詩)や『聞雁』(五言絶句)などがあり、『唐詩三百首』には12首が収められている。『韋蘇州集』10巻が伝わり、『全唐詩』には568首が収録される。『唐詩三百首』の収録作には「雨の日に文士を官舎に招く」「淮上にて梁川の旧友に会う」「滁州西澗」「李曹に別れる夕べの雨」などがある。批評家の銭鍾書は王維と韋応物を並べて論じ、その際に引かれたクローチェの評では、韋応物は「大詩人たちの中の小さな詩人」とされ、王維は「小詩人たちの中の大きな詩人」とされた。散文は『全唐文』に「氷の賦」が一篇だけ残り、河南元氏の墓誌銘も書いている。しかし英語圏では、選集に収められた作を除けば、同時代の詩人ほど翻訳が広まっていなかった。2009年にはレッド・パイン(ビル・ポーター)が全詩の英訳『こんな困難な時代に』を刊行し、翻訳書の賞を受けた。

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