HISTORICAL PERSON · 紀元前6年没

劉向

前漢の学者・政治家。宮中蔵書の校勘を担当し、『別録』『新序』『説苑』『列女伝』『戦国策』などを著した。外戚の王氏の専横を文章で何度も諫めたが、30年あまり重用されないまま72歳で没した。

生涯
紀元前6年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江蘇省 / 沛県)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

劉向は、前漢の学者・政治家である。もとの名は更生、字は子政といい、のちに名を向と改めた。生没年は紀元前79年から前8年とも、前77年から前6年ともいわれ、72歳で世を去ったとされる。漢の高祖劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫にあたり、陽城侯劉徳の次男として生まれた。徐州の生まれとされる。父の劉徳は侯の身分にあった。兄に劉安民がおり、弟の子に劉慶忌がいる。子に劉伋・劉賜・劉歆がいる。前漢の宗室の身分であった。

元服すると宣帝に仕え、文章の才を見込まれて抜擢された。父の劉徳が淮南で手に入れた書物によって自ら錬丹術に挑んだが失敗し、弾劾されて投獄された。しかし兄の劉安民の取りなしや、その才能を惜しむ声もあって、再び出仕することになった。元帝の初めには、蕭望之・周堪らとともに力を合わせて職務に励み、皇后の親族である許氏や史氏の力を抑えようとする儒者官僚の一派に加わっていた。外戚の許氏や宦官の弘恭らの弊害を説く上書をしたところ、誣告とされて、蕭望之は自殺し、周堪らは左遷され、劉向は投獄ののち免職となった。宦官の弘恭・石顕との権力闘争に敗れた形であった。その後約15年にわたって新たな官職を得られなかった。やがて長兄の劉安民が跡継ぎなく没したため、陽城侯を継いだという。

十数年後、成帝の世になると弘恭らは失脚し、劉向は再び任用された。このとき名を向に改めた。成帝の命により、宮中の蔵書の校勘を担当することになり、前26年ごろから、残りの20年余りの生涯の多くを、この大規模な図書整理に費やした。これには子の劉歆が手を貸し、劉向の没後に劉歆が仕事を完成させた。このころ外戚の王氏が権力を握っていたため、劉向は『列女伝』などの著作をはじめ、文章を奏上して何度も成帝をいさめた。成帝も諫言をもっともだと思っていたが、周囲の圧力のため、それを活かすことができなかった。劉向は30年あまりも重用されないまま、72歳で亡くなった。

劉向は、宮中図書の解題である『別録』をまとめた。これは宮中の図書の最初の目録とされ、のちに劉歆がこれをもとにして『七略』という図書目録を作った。『山海経』の最初の編者とされ、子の劉歆がそれを仕上げたという。『戦国策』『新序』『説苑』『列女伝』など、物語や伝記の集成も編んだ。春秋戦国時代という呼び名は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。『列仙伝』も劉向の編とされてきたが、これは誤りだとされる。また、歴代の符瑞や災異を説明した『洪範五行伝論』も著し、この書は現存しないが、『漢書』五行志がこれを元にしているという。

劉向は宣帝、元帝、成帝の三代にわたって仕えた人物である。詩人でもあり、『楚辞』にある「九歎」の作者とされる。人間の本性については、孟子が善、荀子が悪と見たのに対して、前漢の揚雄と同じく、善悪の混ざったものと考えたと説明される。歴史、文献目録、天文など多くの分野に通じた学者であり、とりわけ宮中の蔵書を整理・編集した仕事で知られる。子の劉伋は世子とされ、三男の劉歆は紅侯となり、劉向が残した目録の仕事を引き継いで『七略』を作り、父の学問の伝統を継いだ。劉向の学問は、遠い親族である淮南王劉安の流れをくむ学者の系譜に連なるものと位置づけられる。生前は30年あまり重用されなかったが、校勘と目録づくりの成果は、図書の分類や解題という形で後の時代に伝わった。

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