伝記
ムーサー・カーズィムは、シーア派十二イマーム派の第7代イマームである。正式にはムーサー・ル=カーズィム・イブン・ジャアファリ・ッ=サーディキと呼ばれ、745年11月10日に生まれ、799年9月4日にバグダードで没したとされる。生地についてはマディーナとも、メッカとマディーナの間にあるアブワーともいわれ、生まれた日付も745年の11月、9月、あるいは746年か747年とする説があって定まらない。父は第6代イマームのジャアファル・サーディク、母はハミーダである。ハミーダは奴隷の身分でマディーナのムハンマド・バーキルの家に入り、のちにサーディクが解放して養い育て、妻に迎えたと伝えられる。
ムーサーは生涯の初めの約20年を父の庇護のもとで過ごした。その時期はウマイヤ朝とアッバース朝の争いのさなかにあたる。父はアッバース朝のカリフ、マンスールの治世の末に毒を盛られて没したとされ、ムーサーは21歳でイマームの座を継いだ。しかし、ムーサーは父の長男ではなかったため、継承には異論もあった。長男イスマーイールをイマームと信じる人びとは分派してイスマーイール派を立て、ムーサーとその子孫の継承を支持する人びとが十二イマーム派と呼ばれることになった。ムーサーの支持者のほうが多かったという。
ムーサーは先代のイマームたちと同様、カリフとの直接の衝突を避け、タキーヤ(信仰を隠す慎重な態度)を守ったとされる。それでも、バーキルとサーディクの時代に学問の活動が盛んになり、イマームたちが社会で特別な地位を占めるようになっていたことは、カリフたちの警戒を招いた。各地でアリー家の子孫(アラウィー派)の蜂起が散発したことも疑いを強め、ムーサーはマフディー、ハーディー、ハールーン・アッ=ラシードのもとで、何度か投獄された。ハーディーはアラウィー派の蜂起をムーサーの扇動と見て、生かしておかないと誓ったが、まもなく自らが世を去った。
ハールーンの時代には二度投獄された。ある説では、ムーサーの親族の一部が、人びとがムーサーをイマームとみなして宗教税を納め、蜂起をもくろんでいると偽りの知らせを伝え、それが重なってカリフが不安を抱いたという。シーア派の学者たちは、ムーサーの影響力が自分たちの一族に及ぶことを恐れたバルマク家の陰謀の結果とも見ている。ムーサーは獄に下されて数年ののちに毒殺され、遺骸はバグダード近郊のカーズィマインに葬られた。没後、その死を認めず、ムーサーは身を隠しているだけで最後のイマーム(マフディー)として再び現れると信じる人びともおり、この一派はワーキフィーヤと呼ばれた。
カーズィム(怒りを抑える人)という称号は、大きな忍耐と怒りの抑制、そして悪意を向ける者への寛大さに由来するといわれる。スンナ派の歴史家イブン・ハッリカーンによれば、誰かが彼を中傷すると、ムーサーはその人に贈り物を届けたという。伝承には、現世は海水に似ていて、飲むほどに渇きが増し、ついには人を殺すという言葉が残る。子は多く、第8代イマームのアリー・リダー、ファーティマ・マアスーマ、シーラーズに葬られたアフマドらが知られ、イランのサイイドの多くはムーサーの子孫とされる。ホメイニもその子孫を称した。墓廟は孫の第9代イマーム、ムハンマド・タキーのものと隣り合い、二つのドームを持つカーズィム廟として、シーア派の聖地となっている。
同じ年に亡くなった人物
- Osbald (799年没)
- リエバナのベアトゥス (799年(推定))
- Eric of Friuli (799年)
- シグルド・リング (799年没)
- パウルス・ディアコヌス (799年没)
同じ地域に関係する人物
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- アブドルカリーム・カーシム (1963年没)
- Ibn 'Abd al-Hakam (871年没)
- ムハンマド・バーキル・サドル (1980年没)
- アブー・イーサー・ワッラーク (861年没)