HISTORICAL PERSON · 紀元前207年没

胡亥

始皇帝に寵愛された末子で、秦の第2代皇帝。始皇帝の死後に趙高・李斯と詔を偽って太子となり、扶蘇や蒙恬・蒙毅に死を与えて二世皇帝に即位した。公子12人を処刑し、阿房宮の工事も再開させた。

生涯
紀元前207年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 秦都区)
出生地
中華人民共和国(秦都区)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

胡亥は、秦の第2代皇帝で、二世皇帝とも秦二世とも呼ばれる。姓は嬴、氏は趙で、始皇帝の末子にあたり、父から寵愛を受けていた。年齢については、二世元年(紀元前209年)の即位時に21歳で紀元前230年の生まれとする記述と、同年に12歳で紀元前221年の生まれとする記述があり、一定しない。始皇帝の男子は二十数人とされ、胡亥は十八番目の男子だろうという推測もある。始皇37年(紀元前210年)、五度目の巡幸に出る父に願い出て、同行を許された。

巡幸の途中で始皇帝は病に倒れ、長兄の扶蘇に宛てて、咸陽で葬儀を行うよう命じる文書を作らせた。だが文書は符璽を扱う趙高の手元に留まり、使者に渡されないうちに、同年7月、始皇帝は沙丘の平台宮で崩御した。李斯は死を伏せたが、趙高は胡亥に、扶蘇が即位すれば他の公子には土地も与えられないと説いた。胡亥は初め、父の決めたことに口を挟めないと答えたものの、繰り返し迫られて謀略に同意し、趙高は李斯をも引き入れた。三人は詔を偽って胡亥を太子に立て、扶蘇と将軍の蒙恬に罪状を並べた書状を送って死を賜った。扶蘇はすぐに自殺し、疑った蒙恬と弟の蒙毅は投獄された。咸陽に着いた胡亥は始皇帝の死を公表し、二世皇帝として即位した。

即位後の胡亥は趙高を側近として信任した。始皇帝を驪山に葬る際には後宮の女官を殉死させ、墓の機構を知る工匠たちを墓に閉じ込めたという。蒙毅は殺され、蒙恬は毒を飲んで自決した。兄の子嬰が諫めたが、聞き入れなかった。胡亥は耳目の楽しみを極めたうえで長く天下を保つ方法を趙高に尋ね、法を厳しくし大臣や親族を遠ざけるべきだと答えられて、罪ある者を趙高に取り調べさせるようにした。さらに大臣や公子の粛清に踏み切り、公子12人が咸陽の市場で処刑され、公主10人は車裂きにされた。公子の高は一族の連座を恐れ、自ら始皇帝への殉死を願い出た。阿房宮の工事も再開し、放置すれば先帝の行いを過ちと咎めることになると述べた。郡県に豆や穀物、まぐさを送らせたため、咸陽の周囲300里では収穫した穀物を食べることもできなくなったという。労役や租税は重くなる一方だった。

二世元年7月、楚で陳勝・呉広の乱が起こった。胡亥は報告した使者を獄に入れ、学者たちに意見を問うて、反乱だと答えた者を投獄し、盗賊にすぎないと答えた叔孫通を博士に昇進させた。同年9月、周文の軍が戯に迫ると、ようやく驚き、章邯の提案で驪山の囚人に武器を与えて迎え撃たせた。章邯は周文を破り、翌年11月に周文は死んだ。李斯が諫めても胡亥は退け、堯や禹のような質素は愚か者のすることだと言い切った。やがて趙高の進言で禁中にこもり、大臣は趙高を介さねば会えなくなった。趙高の讒言を受けて李斯を取り調べさせ、李斯が趙高の謀反の志を訴えても、胡亥は趙高を擁護した。馮去疾・李斯・馮劫が阿房宮の中止を求めた際には三人を獄に下し、馮去疾と馮劫は自殺した。李斯は拷問に耐えかねて罪を認め、腰斬に処された。判決を見た胡亥は、趙高がいなければ李斯に欺かれるところだったと喜んだ。

その後、章邯が項羽に降り、劉邦の軍も咸陽に迫った。二世3年(紀元前207年)、趙高が起こした望夷宮の変で胡亥は自殺に追い込まれた。趙高は責任を負わされることを恐れていたとされる。後継の秦王には、かつて諫言を重ねた子嬰が立てられたが、秦は子嬰が劉邦に降伏して滅んだ。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物