HISTORICAL PERSON · 858年没

李商隠

晩唐の官僚・漢詩人で、字は義山。牛李の党争の中で不遇だったが、妖艶で唯美的な詩風で知られ、無題詩や「楽遊原」を残した。北宋初期に流行した西崑体の祖となり、杜牧と並んで「小李杜」と称される。

生涯
858年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 滎陽市)
出生地
中華人民共和国(滎陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

李商隠は、晩唐を代表する漢詩人で、官僚でもあった人物である。字は義山、号は玉谿生。詩作のとき多くの書物を机に並べたことから、獺祭魚とも呼ばれた。生年は812年(元和7年)とされるが、813年とする説もあり、没年は858年(大中12年)である。懐州河内県の出身で、鄭州滎陽県で生まれた。官僚としては不遇だったが、妖艶で唯美的な詩風は高く評価され、のちに多くの追随者を生んだ。同時代の温庭筠とともに、似た婉約な詩風から「温李」、杜牧とともに「小李杜」とも称される。

父の李嗣は県令や幕僚を務める地方官で、唐の宗室につながる家柄というが、このころは没落していた。李商隠はその長男で、2人の弟と6人の姉妹がおり、10歳のころに父を病で亡くした。当時の唐の宮廷では、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥が政争を続けていた。いわゆる牛李の党争である。若い李商隠は、牛僧孺派の重鎮だった令狐楚の庇護を受け、837年、26歳で進士科に及第した。ところが同じ年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第した。すると今度は李徳裕派に属する王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、その娘を妻に迎えた。

839年、王茂元の働きかけで、文人官僚の出発点として最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任じられた。しかし牛僧孺派からは恩を忘れた者として激しく非難された。以後も処世のために両党の間を渡り歩いたため、変節漢と見なされて厳しい批判を受け、官僚としては生涯不遇に終わった。同じ年のうちに中央にいられなくなり、弘農県の尉として地方に出た。その後の経歴は、掌書記、秘書省正字、桂管防禦観察掌書記、太学博士、東川節度書記、塩鉄推官など、ほとんどが地方官の連続で、中央にいるときも実職はなかった。たびたび辞職し、あるいは免職にもなっている。この間、842年に母を、851年に妻の王氏を亡くした。858年、またも職を失って郷里へ帰る途中、あるいは帰り着いてまもなく病没した。享年47。

詩の中心は艶情詩にある。とくに『無題』と題された律詩は、暗示的・象徴的な手法を駆使して、幻想的で官能的な独特の世界を築いた。主題は、破局に終わった道ならぬ恋の回想や、甘美な夢のような青春の記憶である。詩は古来、気高い志を詠うものとされ、師と仰いだ杜甫にもその傾向が強かった。しかし晩唐は、党争による政変が相次ぎ、実権は宦官が握り、節度使が国土を分断する時代であり、志を詠ってもどうにもならなかった。李商隠は周囲の白眼視を受けながら、個人的な美の完成をひたすら追求した。『隋宮』『馬嵬』などの詠史詩にも定評があり、五言絶句『楽遊原』は代表作に数えられる。ほかに、稗史や小説など知識人が手を触れるべきでないとされた書物からも典故を引いたため、詩に深みが出る一方、難解にもなった。

詩は生前から高い評価を得ていた。最晩年の白居易はその詩を深く愛し、「死んでも君の子に生まれ変われれば満足だ」と言ったというが、真偽は分からない。北宋初期には、楊億らが編んだ『西崑酬唱集』をきっかけに、李商隠に範を求めた西崑体が流行した。しかしそれは表面的な模倣にすぎないとして、北宋中期に欧陽脩や梅堯臣に批判された。その直後に王安石が、杜甫と同水準の深い人間洞察が詩に含まれると指摘し、以後の李商隠評はこの説に従っている。

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