伝記
アリスティッポスは、紀元前435年頃に生まれ、紀元前355年頃(紀元前356年頃とする記述もある)に没したとされる古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子でありながら快楽主義を唱え、キュレネ派の祖となった。著作は現存せず、その言行はディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』などを通じて伝わっている。
彼は北アフリカのキュレネ(現在のリビア)で、アリタデスの子として生まれた。オリンピア競技祭に参加するためギリシアへ渡り、そこで農学者イスコマコスと知り合った。イスコマコスからソクラテスの話を聞き、強い憧れを抱いたと自身で述べたという。そこでアテナイへ向かい、紀元前399年に師が死ぬまで行動をともにした。歴史家ディオドロスは彼の消息を紀元前366年頃まで追っており、親交のあった高級娼婦コリントのライスが紀元前421年の生まれであることなどとも、年代がよく合うと指摘される。
とはいえ、弟子でありながら、主義においても行動においても、彼は師の教えや模範から大きく離れていた。贅沢な暮らしを送り、性的な満足も喜んで追い求め、悪名高いライスとも親しかった。講義の謝礼を受け取ったのも、ソクラテスの弟子では彼が最初である。ときにはその金をソクラテスに送ったが、師が侮辱と受け取って突き返すこともあったと伝えられる。生まれ故郷の政治に巻き込まれる煩わしさを避けるため、他国に住んでいるとソクラテスに語ったともいう。こうした違いから、彼は師や同門の弟子たちと衝突することが多かったとされる。
その後、シラクサの僭主ディオニュシオス1世か2世の宮廷に仕えた時期があり、助言者として贅沢を楽しんだとされる。紀元前396年には、スパルタ勢をロドス島から追い出した総督の捕虜になったこともあるという。ウィトルウィウスは、難破してロドス島の岸に打ち上げられた彼が、砂浜に描かれた幾何学の図形を見つけ、人間の痕跡があると仲間を励ました逸話を伝える。町の体育場で哲学を論じて贈り物を得、仲間の衣服や必需品もまかなえたため、故国へ伝言を求められると、難破しても泳いでついてくる財産を子に与えよと答えたという。晩年はキュレネに戻り、快楽を求める暮らしのまま79歳で世を去ったとされる。
思想の核心は快楽の追求である。彼はソクラテス自身が宴会や酒、贈り物を受け取ることを楽しんでいた点に関心を抱き、そこから倫理的な快楽主義の考えを形づくっていったという。将来を憂えたり過去に惑わされたりすることを愚かだとし、刹那的な快楽を説いて、「自分たちのものは現にあるものしかない」と述べた。有名な言葉に「私は所有するが、所有されない」がある。快楽そのものを至上の善としつつも、快楽や快楽の対象に支配され奴隷になってはならないとし、他人を害さず、道徳的な自制で節度を保つよう弟子に戒めたという。
彼の教えは娘のアレテに受け継がれた。息子が二人いたが、娘を知的な後継者と見なしたという。アレテはこれを孫の小アリスティッポスに伝え、二人によって体系化されてキュレネ派が成立したとされる。祖父と孫が混同されている形跡もあるという。師や同門から強い反発を受けながらも、彼は生涯の生き方と教えを通じて快楽主義を広め続け、その考えは後の世代へと引き継がれていった。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前326年の執政官) (紀元前 350年(推定))
- アルテミシア2世 (紀元前350年没)
- クセノポン (紀元前350年代没)
- ガイウス・マルキウス・ルティルス (紀元前357年の執政官) (紀元前 350年(推定))
- アルタクセルクセス2世 (紀元前350年代没)
同じ地域に関係する人物
- Arcesilaus I of Cyrene (紀元前582)
- Arcesilaus II of Cyrene (紀元前600)
- Battus I of Cyrene (紀元前600)
- キュレネのラキュデス (紀元前204)
- アゲシラオス2世 (紀元前360年没)