HISTORICAL PERSON · 1876年没

ミハイル・バクーニン

ロシアの思想家・無政府主義者。アナキズムの歴史で重要な人物で、マルクスのプロレタリア独裁に反対し、第一インターナショナルから除名された。

生涯
1876年没
死亡地
スイス連邦(ベルン州 / ベルン)
出生地
ロシア連邦(Priamukhino)
出典
世界地図
スイス連邦(ベルン州)

伝記

ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニンは、1814年5月30日に生まれ、1876年7月1日に没したロシアの思想家、哲学者、無政府主義者、革命家である。アナキズムの歴史を語るうえで重要な人物であり、マルクスの主張したプロレタリア独裁に反対したことでも知られる。

1814年春、モスクワの北西のトヴェリ県プリャムヒノで貴族の家に生まれた。14歳でサンクトペテルブルクに出て砲兵学校に学び、1834年に皇帝親衛部隊に准尉として入隊して、リトアニアに赴いた。同年夏、家族の間で悶着があり、意に沿わない結婚をめぐって姉を庇った。父は息子に軍職と市民への奉仕を続けるよう望んだが、軍職を捨ててモスクワへ向かい、哲学を学んだ。元学生のグループや詩人スタンケーヴィチを中心とする人々と交わり、カント、シェリング、フィヒテ、ヘーゲルへと関心を移した。1836年にフィヒテの著作の翻訳を出版し、ヘーゲルの著作のロシア語訳も初めて刊行した。ゲルツェンらと出会い、思想は汎スラヴ主義的な色彩を濃くしていった。

父を説得して1840年にベルリンへ赴き、当初は大学教授になるつもりだったが、ヘーゲル左派の急進的な学生と接触して社会主義運動に加わった。1842年の小論文『ドイツにおける反動』には「破壊への情熱は、創造の情熱である」という一節がある。ドレスデンを経てスイスのチューリヒに向かったが、帰国命令を拒んで財産を没収された。チューリヒではドイツの共産主義者ヴァイトリングと親しくなり、ブリュッセルではポーランド国家主義者らと知り合った。1844年にはパリへ行き、マルクスやプルードンと接触した。特にプルードンから大きな感銘を受けて、友情を築いた。同年12月、皇帝ニコライ1世により貴族的特権と市民権の剥奪、終身のシベリア流刑が宣告された。1847年11月にポーランド十一月蜂起の記念集会で、ポーランドとロシアの人民が協力して皇帝に立ち向かうよう呼びかけ、フランスから追放された。

1848年に各地で革命運動が起こると、歓喜してスラヴ民族の解放のために活動を開始した。プラハでは第一回汎スラヴ会議に参加したが、蜂起は武力で鎮圧された。この頃、マルクスが彼をロシア側の工作員だとする言説を広め、のちに撤回した。1849年のドレスデン五月蜂起では指導的役割を担い、バリケード戦に臨んだが、ケムニッツで捕らえられ、ザクセン政府により死刑を宣告された。終身刑に減刑されたのち、オーストリア当局に引き渡されて再び死刑判決を受け、これも減刑となり、1851年5月にロシアへ送られた。

ペトロパヴロフスク要塞で皇帝の使者から告白書の提出を求められたが、他の活動家の名を挙げることを頑なに拒んだ。ニコライ1世は「気概のある見上げた男だが、危険人物だ」と評したという。要塞の地下牢に3年、シュリッセリブルクの監獄に4年幽閉され、壊血病で歯がすべて抜け落ちた。1857年にシベリア流刑となり、1861年に脱走して、日本とアメリカを経由してロンドンへ逃れた。ゲルツェンとともに言論誌『カラコル』の刊行にも携わった。1868年に第一インターナショナルに加入し、1872年の大会でマルクス派との衝突の末に除名された。『国家制度とアナーキー』『神と国家』などは1870年から1876年の間に書かれた。健康を悪化させてベルンの病院へ運ばれ、同地で死去した。

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