伝記
フィロタスは、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニアの将軍で、重臣パルメニオンの息子である。生年は紀元前365年ともいわれ、没したのは紀元前330年10月とされる。大王に最も古くから付き従った股肱の一人であり、マケドニア軍の騎馬軍団の最高司令官を務めた。
アレクサンドロスが紀元前336年にマケドニア王となったとき、父パルメニオンの支持があったため、その一族は官職や任務を与えられて報われた。フィロタスも一つの騎兵中隊の指揮官から、伴友騎兵の指揮官へ昇進した。伴友騎兵は王の護衛や侍従も出すマケドニア騎兵の軍団で、戦場では王自身がこれとともに騎行して率いた。フィロタスは有能な将校だったが、傲慢で尊大だと広く見られていたという。廷臣としての振る舞いを身につけることはできず、しばしば対立の中心となり、王の不興を買うことも多かった。それでも大王とともに多くの戦いに加わり、グラニコス川の戦い、ミレトスの攻防戦、ティロスの包囲戦などで戦った。ミレトスでは、港を包囲するペルシア艦隊の着岸を妨げ、敵の侵攻を防いだとされる。
紀元前330年の後半、東方遠征に従軍して今日のアフガニスタン付近にいたとき、フィロタスは大王暗殺を企てた事件の首謀者として名が挙がった。若手将校らによる暗殺未遂の陰謀を知りながら、それを王に知らせなかったためだとされる。それ以前にも似た報告を受けたことがあり、大王は一度はフィロタスを許した。しかし、その後、義兄弟から新たな証言があり、告発者には、フィロタスの姉妹を妻とするコイノスも含まれていた。再び逮捕されたフィロタスは軍法会議で有罪を言い渡され、陰謀の範囲を白状させるために拷問を受けて父の関与にも触れたという。そして他の有罪となった者たちとともに、石を投げられて、あるいは槍で突かれて殺されたとされる。
一説には、陰で大王を批判していたことを密告され、疎まれていたために、首謀者という汚名を着せられて処刑されたともいわれる。フィロタスの処刑は、父パルメニオンの排除にもつながった。パルメニオンは陰謀に無関係だったが、跡継ぎの息子が処刑された以上は信用できないと判断された。大王は、息子の処刑の知らせが届く前に刺客を送って彼を殺させた。後に父パルメニオンも大王によって殺害されたと記される。フィロタスの死後、伴友騎兵の指揮は二人の将校に分けられた。
フィロタスの物語は後世の文学や映画にも取り上げられた。1604年にはイギリスの詩人で劇作家のサミュエル・ダニエルが同名の劇を書いた。上演はエセックス伯ロバート・デヴルーの処刑と重ねて見られたため、枢密院から目をつけられることになった。1731年にはフィリップ・フラウドが同名の劇を書き、ロンドンで上演された。映画では、2004年の映画でジョゼフ・モーガンが、1956年の映画でルベン・ロホが演じている。ドイツの劇作家で批評家のレッシングも1759年に同名の劇を書いた。啓蒙の時代で、七年戦争のさなかに書かれた作品である。物語は、初陣で捕虜となった若く衝動的な王子で指揮官のフィロタスを主人公とする。王子は、捕虜の交換が迫るなか、自分が生き続けることが父の利益になるのかを思い悩み、自ら命を絶つのが最もふさわしいと結論する。この自死が必要だったのか、作者がプロイセンの厳格な道徳を称えたのか批判したのかは、現代の演劇や倫理の教育でも議論の的になっているという。
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