HISTORICAL PERSON · 紀元前330年没

パルメニオン

ピリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えたマケドニアの武将。カイロネイアの戦いで左翼騎兵を率い、大王の遠征では副総司令官として左翼を指揮した。前330年、息子フィロタスに続いてメディアで殺された。

生涯
紀元前330年没
死亡地
イラン共和国(ハマダーン州 / エクバタナ)
出生地
ギリシャ共和国(ギリシャ)
出典
世界地図
イラン共和国(ハマダーン州)

伝記

パルメニオンは、古代マケドニア王国の武将で、ピリッポス2世とアレクサンドロス3世(大王)に仕えた人物である。紀元前400年頃に生まれ、紀元前330年に没したとされる。父はフィロタスで、アサンドロスとアガトンという2人の弟がいたとされる。子には、父と同名のフィロタス、ヒュパスピスタイを率いたニカノル、大王の侍従となったヘクトルがおり、娘2人はそれぞれコイノスとアッタロスに嫁いだ。長男フィロタスは伴友騎兵の指揮官となり、末の子ヘクトルはガウガメラの戦いで死んだという。弟アサンドロスは一時リュディアの総督を務めたとされる。マケドニアの貴族に連なり、ピリッポス2世が最も信頼する将軍だったといわれる。

ピリッポス2世の時代、パルメニオンはマケドニア軍の育成に尽力した。王の戦術は、サリッサで武装した比較的軽装の徴募兵のファランクスや、テッサリア騎兵などの外様騎兵が敵の歩兵と騎兵の攻勢を支えている間に、近衛歩兵と精鋭騎兵が回り込んで包囲するというものだった。パルメニオンは、この構想を実現するために、敵の攻勢を受け止める役を担ったとされる。紀元前356年にはイリュリア人らの反乱の鎮圧を指揮し、紀元前347年から346年の冬にはテッサリアのハロスの包囲を率いたという。アテナイとの和平交渉にもアンティパトロスとともに加わり、紀元前346年のピロクラテスの和約につながった。紀元前342年にはエウボイアの諸都市を従えたが、カルキスの僭主は抵抗した。紀元前338年のカイロネイアの戦いでは、当時王子だったアレクサンドロスとともに左翼の騎兵を率い、ボイオティア軍を壊滅させたとされる。

ギリシアの覇権を握ったピリッポス2世は、ペルシア遠征の前段階として、紀元前336年初めにパルメニオンをアッタロスらとともに先遣隊として小アジアへ送った。パルメニオンはマグネシアなどで勝利し、グリュネイオンを奪ったが、ピタネの包囲は失敗し、トロアスやアビュドスへ退いた。この最初の遠征は成功とはいえず、ギリシア人の都市もマケドニア側にほとんどつかなかった。そこへピリッポス2世が暗殺され、遠征はアレクサンドロスに引き継がれた。パルメニオンは、アレクサンドロスが従兄弟のアミュンタスを処刑した後に忠誠を誓い、紀元前334年5月にアビュドスで大王の軍と合流した。

アレクサンドロス3世が即位すると、パルメニオンは副総司令官となり、引き続き鉄床戦術の一翼を担った。グラニコス川、イッソス、ガウガメラの戦いでは左翼の指揮を執り、優勢な敵の攻勢を支えて、大王が率いる右翼の攻撃を成り立たせた。イッソスの戦いのときは、ペルシア騎兵に押されてファランクスが川の向こうへ退いたが、大王が敵陣に突破口を開き、ペルシアの王は逃走した。戦いの後、大王が海岸沿いに進むあいだ、パルメニオンはダレイオス3世が財宝を置いたダマスコスへ向かった。ティロス包囲の後にダレイオスが和平を申し出たとき、パルメニオンは受け入れるよう勧めたが、大王は断ったと伝えられる。

紀元前330年、パルメニオンの息子ニカノルが病死した直後に、大王は路線の対立から、息子フィロタスに暗殺の陰謀に加わったという冤罪を着せて殺害したとされる。パルメニオンは一軍を率いて遠征軍の補給路上にいたため、大王は彼が信頼する友人3人を送った。パルメニオンはメディアで、一族もろとも殺害された。ピリッポス2世とアレクサンドロス3世の2代に仕え、軍の中核を支えた将軍の最期であった。

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