伝記
ティモレオンは、古代ギリシアの都市国家コリントスの政治家であり将軍である。シチリアのシュラクサイを僭主たちから解放したばかりか、カルタゴの大軍を少数の兵で破って退かせ、シチリアに平和をもたらした。その功績により、シチリア諸都市の真の建国者と称えられた。コリントスの名門に生まれ、父はティモデモス、母はデメレタである。
紀元前360年ごろ、兄ティモパネスがコリントスのアクロポリスを占拠して僭主になった。ティモレオンは兄の権力に頼れば支配権を得られたのに、コリントスに自由をもたらす道を選び、兄の暗殺を画策して実行させた。実の兄の殺害なので、自分では手を下さなかった。コリントスは僭主政から解放され、民衆は彼を愛国者と称えた。しかし母は彼を「神をも恐れぬ兄殺し」と蔑んで呪い、一部の市民からも兄殺しと非難された。そのためティモレオンは精神を病んで自殺を図ったが失敗し、20年に及ぶ隠居生活を送ることになった。
そのころシュラクサイでは、ディオンが殺されてディオニュシオス2世が僭主に返り咲き、さらにレオンティノイの僭主ヒケタスがシュラクサイを攻めていた。ヒケタスの戦いは自由のためではなく、自らの支配欲のためだった。シュラクサイ人はコリントスに使節を送って、僭主同士の争いから救ってくれる指導者を求めた。シュラクサイはコリントスの植民市であり、コリントスは求めを断れなかった。有力者たちが出征の責任を避けるなか、集会で忘れられていたティモレオンの名が挙がり、満場一致で選ばれたという。彼は7隻の軍船と少数のコリントス重装歩兵、700人の傭兵を連れてシチリアへ向かった。ヒケタスはカルタゴの三段櫂船20隻と使節を送って、軍をコリントスへ帰すよう求めたが、ティモレオンは従わず、密かに出航してタウロメニオンに上陸し、歓待と援軍を得た。
アドラノンで、ヒケタスの5000の軍に対し、1000に満たない兵で夕食中の敵に奇襲をかけ、300人以上を討ち、約600人を捕らえた。ついでシュラクサイに急行して一部地域を奪った。カルタゴはヒケタスと結び、150隻の三段櫂船で約5万の兵を上陸させたが、ティモレオンもタウロメニオンやコリントスからの援軍を得、カタニアの僭主も味方についた。紀元前343/342年、ディオニュシオス2世は安全にコリントスへ亡命することを条件に降伏した。カルタゴ軍は撤退し、孤立したヒケタスも降伏して、ティモレオンはシュラクサイ全体を制圧した。コリントスから移住者を募り、ディオクレスの法を基に民主政を築き、僭主政の象徴だった砦を壊した跡には民衆裁判所を建てた。
のちにカルタゴは、ハミルカルとハスバルドルを指揮官に、歩兵7万、戦車と騎兵1万の大軍をリリュバイオンへ送った。ティモレオンは歩兵5000、騎兵1000で出撃し、道中で傭兵約1000人が逃げ出す事態もあったが、クリミソス河を見渡せる丘に布陣した。カルタゴの戦車・騎兵が渡り終えたところでギリシア騎兵が突撃して誘い出し、無防備になった歩兵へ重装歩兵を突入させた。浅瀬が狭くカルタゴは大軍を展開できず、悪天候で河が増水するなか、多くが溺れ死んだ。1万人が死に、1万5000人が捕虜となった。紀元前338年、カルタゴはプラタニ以西に領土を限る条約に同意し、戦争は終わった。ティモレオンは自ら僭主にならず、全権を早々に手放して引退し、一市民としてシュラクサイで暮らしたが、その助言は最も尊重された。死後は体育場ティモレオンテウムに公費で葬られ、シチリア中の人々が葬儀に参列した。
同じ年に亡くなった人物
- ニカノル (パルメニオンの子) (紀元前330年没)
- パルメニオン (紀元前330年没)
- フィロタス (紀元前330年没)
- ダレイオス3世 (紀元前330年没)
- エポロス (紀元前330年没)
同じ地域に関係する人物
- ティマイオス (紀元前259)
- シュラクサイのディオン (紀元前354年没)
- マリオ・ミンニーティ (1640年没)
- エンゾ・マイオルカ (2016年没)
- コンスタンス2世 (668年没)