伝記
マロツィアは、890年ごろにローマで生まれ、930年代に没した女性で、10世紀初めにローマと教皇領の実権を握った。没年は932年とも936年ともされ、936年の場合は6月26日という。父はローマの貴族でトゥスクルム伯のテオフィラクトゥス、母はテオドラである。本名はマリアで、マリウッチャやマリオッツァとも呼ばれた。
トゥスクルム家は、10世紀前半のおよそ50年にわたって教皇庁を事実上支配し、その後半はマロツィアの子、スポレート公アルベリーコ2世の支配だった。一族は複数の親族を教皇に立て、この時代の教皇庁の状況はポルノクラシー(娼婦政治)と呼ばれる。クレモナのリウトプランドは、母テオドラと娘マロツィアの二人が、ベッドと美貌でイタリアの政治を動かしたと厳しく書いた。ただ、母と同じく読み書きはできなかったともいわれ、機知と魅力で強い同盟や友人関係を築き、権力を固めたとされる。ローマで最高の美女と評された彼女は、のちに教皇となるセルギウス3世の愛人となり、907年ごろ、教皇の子とされる男児ヨハネスを産んだ。この関係は、リウトプランドが重い姦通と記したため多くの研究者に受け入れられたが、ピエトロ・フェデーレらは根拠のない噂と見た。
結婚は三度、いずれも政治的な理由によるとされる。最初の夫はスポレート公アルベリーコ1世で、結婚の時期は909年とも915年ごろともいわれる。この結婚から、のちのアルベリーコ2世が生まれた。アルベリーコ1世は914年に教皇ヨハネス10世と同盟を結び、915年にはガリリャーノ川の戦いでサラセン人を破った。夫は924年にオルテで傭兵に殺されたとも、926年に死んだともされる。夫の死後、マロツィアはトスカーナ侯グイードとの再婚で権力に戻ろうとしたが、教皇ヨハネス10世が反対した。以後、教皇は最大の敵となり、928年5月にラテラノの教皇邸を襲って教皇を捕らえさせ、教皇はサンタンジェロ城に幽閉されたのち獄中で死んだ。窒息させられたとも伝えられる。グイードとは二度目の結婚をし、929年に没した。その間、マロツィアは息子がまだ若かったため、レオ6世やステファヌス7世ら教皇を次々に選んだ。
931年、わが子ヨハネス11世を教皇の座に就けた。新教皇は気が弱く、母の言うなりだったと伝えられ、母はローマの女主人と見なされた。マロツィアは三度目の結婚を、プロヴァンスのウーゴ(アルルのユーグ)と望んだ。「イタリア王」を称するウーゴは、母親がロタール2世の娘ベルタである点でグイードの異父兄にあたり、再婚は禁じられていた。マロツィアは二人は実の兄弟ではないとでっちあげ、932年、息子ヨハネス11世の祝福のもと、ハドリアヌス帝の墓室で婚礼をあげ、サンタンジェロ城を新居とした。
しかし、もう一人の息子アルベリーコ2世が反旗をひるがえした。婚礼のさなか、ウーゴが手を洗う水の注ぎ方を誤ったアルベリーコを平手で打ったという話も伝わる。アルベリーコ2世はサンタンジェロ城を攻め、ウーゴは逃げ、マロツィアは牢に囚われた。ウーゴは何度もローマを攻撃したが、アルベリーコ2世は守り抜いた。マロツィアは城で五年ほど過ごして獄死し、キリアコとニコラの修道院に葬られたとされる。アルベリーコ2世は954年に死ぬまで約20年ローマを支配し、その子がヨハネス12世として教皇となった。マロツィアは、子と孫の二代にわたって教皇を出したことになる。
同じ年に亡くなった人物
- ハーラル1世 (ノルウェー王) (930年代没)
- フクバルド (930年)
- アブー・カーミル・シュジャー・イブン・アサラム (930年没)
- 伊勢 (歌人) (930年代没)
- レステク (930年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ガエターノ・マルティーノ (1967年没)
- プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス (紀元前183年没)
- Saint Susanna (295年没)
- ジャコモ・バッラ (1958年没)
- インノケンティウス8世 (ローマ教皇) (1492年没)