伝記
ペルディッカスは、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍で、ディアドコイ(後継者)の一人である。オレスティスの貴族オロンテスの子で、弟にアルケタスがいた。生年は不明で、没年は紀元前321年とも紀元前320年ともいわれる。王の暗殺者パウサニアスが追われて殺された際、追手の中にいたとも伝えられる。
東征では重装歩兵部隊を指揮し、グラニコス川、イッソス、ガウガメラの会戦に加わった。紀元前335年のテバイ攻めでは、命令を待たず敵の防柵に攻撃をかけたとも、裏門から別働隊を率いて市内に突入したともされ、攻撃のなかで負傷して後方に移された。王の北方遠征にも加わり、王の指揮下でグラウキアスとクレイトスを夜襲して破った。ガウガメラでは瀕死の重傷を負ったとも伝わる。パレイタカイでは、岩砦を攻めるための工事をレオンナトス、プトレマイオスとともに監督した。ソグディアナでは五つに分けた軍の第三部隊を指揮した。インドではヘファイスティオンとともにインダス川へ先発し、オロバティスの町を固めたうえで、舟橋や船を用意して王を迎えた。ペルディッカスは王の信頼の厚い重臣の一人だった。ヒュダスペス川の戦いでは騎兵の一隊を率い、紀元前325年のマッロイ人との戦いでは軍の片方を任された。市内に突入した王が矢を受けて重傷を負ったとき、体内に入った鏃を取り出すため、ペルディッカスが自分の剣で傷口を切開したとも伝えられる。紀元前324年にヘファイスティオンが病死すると、遺体を託されてバビロンで葬儀を営み、ヘタイロイの指揮官と千人隊長の地位を引き継いだ。同年のスサの集団結婚式では、メディア太守アトロパテスの娘を妻に迎えた。
アレクサンドロスは臨終にあたり、ペルディッカスに印章の指輪を渡したとされる。ユスティヌスはこれを「暗黙の」後継者指名だったと記している。王の死後のバビロン会議ではペルディッカスが主導権を握り、まだ生まれていないロクサネの子(のちのアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人、すなわち摂政となって、帝国の実質的な首座に就いた。このとき、王の異母兄弟アリダイオスを推す歩兵と、これに迎合した将軍メレアグロスの騒ぎで、一時は殺されかけた。騎兵と他の諸将の支持を得て歩兵を演説で説得し、アリダイオスを王とし、ロクサネの子が男子なら共同統治者とすることで和解した。しかしその直後、神殿に逃げ込んだメレアグロスを殺害した。
その後は盟友エウメネスのため、カッパドキアへ遠征して王アリアラテス1世を滅ぼした。勢力を固めようとアンティパトロスの娘ニカイアとの結婚を申し出たが、オリュンピアスが自分の娘クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスは、いったんアンティパトロスの娘と結婚してすぐに離婚し、クレオパトラを迎えようとした。怒ったアンティパトロスは、警戒していたクラテロス、プトレマイオス、アンティゴノスらと対ペルディッカス同盟を結び、戦争となった。
ペルディッカスは小アジアの戦いをエウメネスに任せ、自らはプトレマイオスを滅ぼすためエジプトへ向かった。しかしナイル川の渡河に失敗し、落胆した兵士たちが反乱を起こして、部下のペイトン、アンティゲネス、セレウコスらに暗殺された。アッリアノスは奇談集で、ペルディッカスが雌ライオンの巣の洞窟に単身入り、ライオンが仔を連れて出ていったため、豪胆さを皆に称えられたと記している。
同じ年に亡くなった人物
- ネオプトレモス (ディアドコイ) (紀元前321年没)
- ヒュペレイデス (紀元前321)
- Ariarathes I of Cappadocia (紀元前321)
- クラテロス (紀元前321年没)
- 顕王 (紀元前321年没)
同じ地域に関係する人物
- クレオパトラ・テア (紀元前121年没)
- ヤアクービー (897年没)
- オンム・セティ (1981年没)
- ムハンマド・タンターウィー (2010年没)
- Zarkashi (1392年没)