HISTORICAL PERSON · 紀元前319年没

恵王 (魏)

戦国時代の魏の第3代君主で、王を称した初代。前341年の馬陵の戦いで斉に大敗し、秦にも敗れて都を大梁に遷した。『孟子』に「梁の恵王」として登場し、「五十歩百歩」の故事の問答の相手となった。

生涯
紀元前319年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

恵王は、紀元前400年に生まれ、紀元前319年に没した中国戦国時代の魏の君主である。魏の第3代君主で、王を称した初代にあたる。姓は姫、氏は魏、諱は罃という。都を大梁に移したのちは魏が梁とも呼ばれたため、『孟子』には「梁の恵王」として登場し、『竹書紀年』では「恵成王」とされる。

武侯の嫡子として生まれ、武侯の死後、異母兄の公子と王位を争って即位した。この継承争いでは魏が趙と韓に分割されかけたともいい、即位に至るまでに趙や斉の介入を許した。魏は大陸の中央に位置して当時最大の勢力を誇り、恵王は「夏王」「天子」を称して、弱体化した周王朝に取って代わる意思を示すほどだった。しかし周囲を強国に囲まれ、秦・宋・韓などとの争いも絶えず、国力を伸ばすのは難しかった。恵王の政策としては、紀元前361年に秦の手の届かない大梁へ都を移したこと、紀元前362年から紀元前359年に趙や韓と領土を交換して国境を整え、新都を守り交易路への支配を強めたこと、紀元前361年から紀元前355年に近隣の君主と何度も会見したこと、紀元前344年に魏を侯国から王国に格上げしたことが挙げられる。

そのような中で、宰相の公叔痤が臨終の間際に、自分の食客である公孫鞅を推挙した。公叔痤は韓の公族の出身で、公孫鞅は衛の公族の出身であった。「私の死後は公孫鞅を宰相にしてください。必ずや魏を強大にします。もし採り入れないなら、すぐ殺してください。他国が登用すれば、魏にとって取り返しのつかない脅威になります」というのが遺言であった。しかし恵王は、公叔痤が老いぼれてこんなことを言うのだろうと考え、公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。失望した公孫鞅は秦に行き、孝公に見いだされて宰相となり、秦の国政を大改革して瞬く間に強国とした。功績により商の地に封じられ、商鞅と呼ばれる。強くなった秦の度重なる侵攻で、魏は領土を削られていった。

紀元前341年の馬陵の戦いで、魏軍は孫臏の率いる斉軍に敗れ、太子の上将軍が捕らえられる惨敗を喫した。孫臏はもと魏の人で、将軍の龐涓にねたまれて膝の骨を取り除かれ、斉へ逃れていた。その翌年の紀元前340年、好機とみた商鞅が西から侵攻し、親交のあった総大将の公子卬を欺いて捕虜とし、大勝した。魏は都を安邑から東方の大梁に遷さざるをえなくなり、以後は梁とも呼ばれた。失意の恵王は、溺愛した太子申の同母弟を世子に定めたという。また、「あのとき公叔痤の言葉を聴いて公孫鞅を処刑していれば、こんなことにならなかったのに」ともらし、商鞅を殺さなかったことを大いに悔いたという。度重なる敗戦で魏は衰え、韓とともに斉に服属して、文侯以来の覇権を失った。恵王は紀元前319年、老衰のため82歳で没し、末子の太子嗣が襄王として即位した。

恵王は孟子との対話でも知られ、『孟子』の最初の2篇は「梁恵王篇」と呼ばれる。あるとき恵王は孟子に、洪水の際には民を移住させ、飢饉の際には食糧を与えるなど心を尽くしているのに、なぜ自国の人口は増えず他国の人口は減らないのかと尋ねた。孟子は、王は戦争がお好きだからと断って、戦場で百歩逃げた兵士を五十歩逃げた兵士が笑ったらどう思うかと問う喩え話をした。これが「五十歩百歩」の故事成句となった。当時の魏は韓・趙・斉・秦を敵に回して戦争が増え、相次ぐ動員で民は疲弊していた。孟子は恵王の好戦的な性格を戒め、それを改めない限り小手先の徳政は無駄だと暗に諭したのである。『荘子』にも、恵王が料理人の丁が牛をさばく見事な技に感嘆する場面が出てくる。

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