HISTORICAL PERSON · 紀元前309年没

張儀

戦国時代の魏の人で、蘇秦と並ぶ縦横家の代表。鬼谷子に学び、秦の宰相として連衡策で合従策を破った。偽りの領土割譲で楚の懐王に斉との同盟を破棄させた。武王の即位後は魏へ逃れ、一年後に没した。

生涯
紀元前309年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 魏)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

張儀は、中国戦国時代の縦横家であり政治家である。魏の人で、生年は分からず、紀元前310年または紀元前309年に没したとされる。蘇秦とともに縦横家を代表する人物とされ、秦の宰相として、蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した。ともに鬼谷子に学び、政治と外交を身につけたといわれる。

『史記』によれば、若い張儀は諸国を遊説したがなかなか受け入れられず、楚の大臣に従って宴会に出たときには、玉を盗んだと疑われて袋叩きにされたことまである。傷だらけで帰った張儀は妻に「舌はまだついているか」と尋ね、ついていると聞くと「舌さえあれば十分だ」と答えたという。その後も不遇で、すでに趙で出世していた蘇秦を頼ったが、予想に反してひどく侮辱された。発奮した張儀は秦に仕えることができたが、このとき必要な資金は蘇秦がひそかに出したものだった。燕と趙を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して同盟が定着するまで秦王が趙を攻めないよう働きかけさせるため、わざと張儀を侮辱したのである。人からこの話を聞いた張儀は感じ入り、蘇君が存命のうちは自分に何もできないと述べてへりくだった。

秦の恵文王に仕えた張儀は、魏を討って上郡と少梁を獲得した功績で宰相となった。紀元前329年に秦に入り、翌年には魏攻めを成功させたとも伝えられる。その後、魏が斉に接近すると、張儀は魏の宰相になり、秦に攻められても他国は頼りにならないと説いて秦と魏の同盟を成立させ、連衡を成功させて再び秦の宰相となった。このとき、かつて自分を袋叩きにした楚の宰相に、今度は本当にあなたの城を奪ってやるという手紙を送ったと言われる。紀元前316年、蜀に内紛が起きたので乗じるべきかと恵文王に問われると、張儀は、韓を攻めて周を脅し、天下に号令するべきだと説いた。しかし恵文王は司馬錯の意見に従って蜀を占領した。

紀元前313年ごろ、張儀は楚への工作に入った。まず懐王の寵臣の靳尚に高価な贈り物をして取り入り、王の注意を引いたとされる。商と於の地の六百里四方を割譲するから斉との同盟を破棄してほしいと楚の懐王に申し入れたのである。懐王は喜んで応じ、将軍を土地の受け取りに派遣したが、張儀は六里だと言い、約束は六百里だと抗議する将軍をとぼけて相手にしなかった。陳軫は張儀を信用できないと疑っていたとも伝えられる。怒った懐王は秦に出兵して大敗した。これが丹陽・藍田の戦いである。その後、秦は土地を割譲して和睦しようと持ちかけたが、懐王は「土地は要らぬ。張儀の命が欲しい」と答え、張儀は楚へ赴いた。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫の鄭袖に人を使って、秦は張儀の命を救うため財宝と美女を贈るつもりだと伝えさせたのである。不安になった鄭袖が懐王に張儀の釈放を願い、張儀は釈放された。こうして張儀は斉と楚の同盟を崩したうえで楚を叩き、和睦にも成功した。張儀はその後も韓、趙、魏、燕などと繰り返し交渉して合従の結びつきを崩し、秦による統一への道を開いたとされる。

紀元前311年に恵文王が没すると、張儀とは不仲だった太子の蕩が即位して武王となった。張儀は誅殺を恐れ、策があると言って魏へ逃れ、魏の宰相となって一年後に没した。なお、以上は『史記』によるが、1973年に馬王堆漢墓から出た『戦国縦横家書』をもとに、蘇秦の事績は大幅に修正され、蘇秦は張儀より後の時代に活躍した人物だったとされる。

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