伝記
シラクサのカリッポスは、紀元前354年から前352年まで、わずか13か月のあいだシラクサを支配した僭主である。アテナイの出身で、プラトンに学んだ人物とされる。同じくプラトンの弟子だったディオンがシチリアへ向かったとき、その軍に加わって同行し、シラクサの攻略に参加した。
ディオンは800人の傭兵を率いてシラクサに入って都市を掌握し、それまでの僭主だった甥のディオニュシオス2世を退けた。カリッポスはディオンの副官のような位置にいた。やがて、亡命したディオニュシオスから金を贈られてディオンの殺害を持ちかけられ、これを受け入れたという。ディオンの親しい友人の多くはすでにディオニュシオスに殺されており、カリッポスは残された最も近い友人として、暗殺にはうってつけの立場にあった。
カリッポスはその金でディオンの兵の一部を買収して寝返らせた。一方で一部の兵を密告してディオンの信頼を得、ディオンから陰謀を探る密偵の役まで任されたとされる。そのため、カリッポスがディオンを中傷していると訴える者があっても、ディオンはそれを探索の一環と受けとめた。その後まもなくディオンの一人息子が窓から落ちて死ぬと、カリッポスは、ディオンがディオニュシオスの子アポロクラテスを後継者としてシラクサに呼び寄せたという噂を流した。ディオンの妻アレテと姉妹のアリストマケは陰謀に気づいたが、ディオンは息子の死の悔恨に打ちひしがれて動こうとしなかった。二人がさらに問いただすと、カリッポスは自分の忠誠を証明すると申し出た。二人はペルセポネの神殿で大誓約を立てるよう求め、カリッポスはそれに従った。しかしその直後に誓いを破り、ディオンを刺し殺して、シラクサの支配権を握った。
支配を始めたカリッポスは、アテナイに手柄を誇る書簡を送った。しかしその基盤は弱く、ディオンの友人たちが起こした反乱は失敗に終わったものの、不人気は増すばかりだった。カリッポスはアレテとアリストマケを投獄し、牢のなかでアレテはディオンの息子を産んだ。人気の低下を気にしてか、危険な存在であるその子をカリッポスは殺さなかったとされる。
失脚のいきさつは伝承によって異なる。ディオドロスによれば、ディオニュシオス1世の子ヒッパリノスが艦隊と軍を率いて攻め寄せ、カリッポスは都市から逃れた。ポリュアイノスによれば、カリッポスが軍を出払わせた隙に、レオンティノイにいたヒッパリノスが攻めて都市を押さえた。プルタルコスによれば、カリッポスがカタナ攻略の遠征で不在の間に、シラクサが反乱を起こして支配権を失ったといい、ヒッパリノスには触れていない。その後カリッポスはメッシナの攻略を試みて敗れ、残った兵を連れてシチリアをさまよったが、自活できずイタリアへ渡った。そこでディオニュシオス2世の支配下にあったレギオンを攻略した。だが傭兵を粗末に扱ったため、仲間のレプティネス2世とポリュペルコンに剣で刺されて死んだ。その剣は、かつてカリッポスがディオンを殺したのと同じ剣だったと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ラゴス (紀元前301)
- アルシノエ (紀元前301)
- ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥス (紀元前 301年(推定))
- アンティゴノス1世 (紀元前301年没)
- マケドニアのニケア (紀元前301)
同じ地域に関係する人物
- Philistion of Locri (紀元前400)
- スクリボニア (16年没)
- アナクシラス (紀元前476年没)
- フランチェスコ・チレア (1950年没)
- ヒッポ (紀元前460)