伝記
アリー・イブン・アフマド・ナサウィーは、十一世紀に活動したペルシアの数学者である。1011年頃に生まれたとされ、出生地はホラーサーンの可能性がある。著作のなかで同地方のナサに言及しており、そこを出身地とする説もある。ブワイフ朝のマジュド・アッダウラとその後継者の時代に活動し、一時はバグダードに暮らした。シャフレ・レイにも住み、イブン・スィーナーの訪問を受けたことが知られる。
代表的な算術の著作は、『インド式計算法についての説得の書』と訳される。初めはマジュド・アッダウラのためにペルシア語で書いたが、この君主が1029年または1030年に地位を失うと、バグダードの支配者ジャラール・アッダウラの宰相シャラフ・アルムルークに献呈した。その際、本文をアラビア語へ移さねばならなかった。別の著作は、バグダードで影響力を持ったシーア派の指導者ムルタダーに捧げられた。
算術書ではインドの十進法を用いる計算を扱い、六十進法にも一章を割いた。分数の計算、平方根と立方根の求め方、九去法も説明している。分数の割り算や開平・開立は、近代の方法に近い形で行われた。平方根では57342、立方根では3652296を例に用い、六十進の分数に代えて十進の分数を使った。立方根を求める方法は、中国の『九章算術』に見られるものと同様である。先行するインド式算術の書を批判し、その対象には、師だった可能性のあるクーシュヤール・イブン・ラッバーンと、アブー・ハニーファ・ディーナワリーの著作があった。ただし批判には誤りも多く、引き算の繰り下がりなど、十分に理解していない事柄を論じたとも評される。
幾何学では、ユークリッドの『原論』第一巻から第六巻、および第十一巻を短くまとめた。本人は幾何学そのものを学びたい人と、プトレマイオスの『アルマゲスト』を読むために必要な人の双方へ向けた入門書だとしている。ほかにメネラウスの定理を扱う書や、アルキメデスの『補題集』に関する著作を残し、サービト・イブン・クッラによるアラビア語訳に修正を加えた。1075年頃、バグダードで没したとされる。算術書は後世、1863年にフランツ・ヴェプケによって知られるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- トレド王マアムーン (1075年没)
- イオアンニス8世 (1075年没)
- カーイム (1075年没)
- アンノ2世 (1075年没)
- アンナ・ヤロスラヴナ (1075年没)
同じ地域に関係する人物
- アル=シェイク・アル=ムフィド (1022年没)
- ムスタクフィー (949年没)
- Abu'l-Barakat al-Baghdadi (1165年没)
- Naji Talib (2012年没)
- イブン・ナディーム (990年没)