HISTORICAL PERSON · 1888年没

カール・フリードリヒ・ツァイス

ドイツの光学機器製造業者。現代のレンズ作製技術に大きく貢献し、彼が設立したカール・ツァイス社は広く知られる。

生涯
1888年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / イェーナ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ヴァイマル)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

カール・フリードリヒ・ツァイスは、1816年9月11日にヴァイマルで生まれ、1888年12月3日に没したドイツの光学機器製造業者である。現代のレンズ作製技術に大きく貢献し、彼が設立した工房は、のちに世界有数の光学メーカーとなった。父ヨハン・ゴットフリート・アウグスト・ツァイスは、ヴァイマル宮廷の装飾旋盤工であり、真珠母や琥珀、象牙などを旋盤で加工する腕で評判だった。のちに大公となる皇太子カール・フリードリヒに旋盤の技術を教えて、師弟の友情は40年続いた。ツァイスが生まれたとき、その皇太子と父にちなんで名づけられたという。母はアントネット・フリーデリケ・シュミットで、6人の子のうちの5番目がカールだった。

兄2人は文献学や歴史を学んで教育の道に進んだが、ツァイスは鼠径ヘルニアのために常にヘルニア帯を着ける必要があり、机に向かう学者の生活は不向きに思われたという。ヴァイマルのギムナジウムを早めに離れ、大公の技術学校の講義にも出て、技術への関心を早くから示した。1834年、イェーナの宮廷職工長ケルナーのもとで見習いとなり、4年間そこで修業しながら、フリードリヒ・シラー大学で数学、実験物理学、鉱物学、光学、化学などの講義を聴いた。のちに顕微鏡の生産を始めるきっかけを与えた植物学者シュライデンの講義も聴いている。1838年に見習いを終えると、遍歴の修業に出て、1845年までシュトゥットガルト、ダルムシュタット、ウィーン、ベルリンで働いた。ウィーンでは、重機械の製造所で働くかたわら、工科大学の日曜講座にも通い、試験に優秀な成績で合格した。

1846年、実験用の科学機器をつくる独立した精密機械業者になろうと決め、イェーナに小さな工房を開いた。道具がほとんどないなかで、多くの顕微鏡レンズを作った。1847年には顕微鏡をフルタイムで製造するようになり、レンズが1つだけの簡単な解剖用の顕微鏡をつくって、初年に約23台を売った。1857年には複数のレンズを持つ顕微鏡を発売し、テューリンゲン州の産業博覧会で銀賞を受けた。1861年の同博覧会では金賞を受けてドイツの最高級の光学製品の一つとみなされるようになり、このころ従業員は約20人になっていた。1866年には顕微鏡の販売数が1,000台に達し、物理学者エルンスト・アッベを訪ねて、数学をレンズ設計に生かせないかを相談した。当初の式は経験にもとづく製品にあとから当てはめたようなものだったが、時間とともに改良された。1872年には理論上の期待に沿った顕微鏡が製造されるようになり、大きな利益をあげた。

1875年には利益を分けるためにアッベを共同経営者に迎えた。1879年にフリードリヒ・オットー・ショットと友好関係を結び、1886年にショットが開発したガラスによって、アッベの原理を十分に生かせるようになり、新しい顕微鏡対物レンズ「アポクロマート」や、色収差をほとんど生じない接眼レンズを生み出した。数学者パウル・ルドルフを迎えて、写真レンズの開発にも着手した。1888年12月3日に脳溢血で亡くなり、息子のローデリッヒ・ツァイスとアッベの共同経営となった。翌1889年に、アッベの主導でカール・ツァイス財団が設立された。

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