伝記
ヨハネス17世は、1003年に約5か月から7か月在位したローマ教皇である。本名はジョバンニ・シッコといい、ローマの出身である。生年は930年2月14日ともいわれるが、確かではない。父も同じくヨハネス・シッコという名で、彼はローマ市内のビヴェレティカと呼ばれた地域で生まれたとされる。
聖職に叙階される前に結婚しており、三人の息子がいた。三人はいずれも聖職に進んだ。三人とも司教になったともいわれるが、ヨハネスがパレストリーナの司教、ペトルスが助祭、アンドレアスがセクンディケリウスという役職に就いたとも伝えられ、食い違っている。
先代のシルウェステル2世が没すると、後を継いで教皇となった。就任の日付は1003年5月16日とも6月13日ともいわれる。彼を指名したのは、皇帝オットー3世に敵対してローマの実権を握っていた貴族、ヨハネス・クレシェンティウスである。クレシェンティウス2世の息子であり、この教皇は、彼に選ばれ、その陰に隠れた教皇の一人とされる。在位中の目立った出来事は伝わっていないが、クヴェルフルトのブルーノが率いる東ヨーロッパへの宣教を認めた。ブルーノは、同行者のベネディクトがスラヴ人の間で布教することの許可も、教皇に求めたという。
1003年11月6日に没し、ラテラノ大聖堂の正面の二つの扉の間に葬られた。助祭ヨハネスによれば、墓碑の銘は「ここに、教皇と呼ばれた至高のヨハネスの墓がある。そう呼ばれていたからである」という趣旨の言葉で始まっていた。後任のヨハネス18世も、同じクレシェンティウスに選ばれた人物である。
教皇名の番号には混乱がある。ヨハネスの名を冠した正統な教皇は、17世の前は15世であり、997年から998年の16世は一般に対立教皇とされる。加えて、14世と15世の間にもう一人ヨハネスという教皇がいたという伝説があり、これを16世と数える例もあったため、17世の名が生まれたとされる。本人も17世を名乗ったため、当時の認識も17番目だったと見られる。この混乱は後まで続き、20世は存在しないまま、のちに21世、22世、23世と数えられて、現在に至っている。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリクス・フォン・フランツィーン (1003年没)
- ナレクのグレゴリオス (1003年没)
- ロザーラ・ディタリー (1003年没)
- ジダ (1003年没)
- ターイー (1003年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・レティツィア・ボナパルト (1836年没)
- トゥリオ・ピネリ (2009年没)
- グレゴリウス2世 (ローマ教皇) (731年没)
- レオ11世 (ローマ教皇) (1605年没)
- ホラティウス (紀元前8年没)