伝記
ギュスターヴ・カイユボットは、1848年8月19日にパリの上流階級の家庭に生まれ、1894年2月21日に没したフランスの画家・絵画収集家である。画家としては写実主義的な傾向が強いが、第2回以降の印象派グループ展の開催に経済的・精神的に大きく貢献し、自らも出品したことから、印象派の画家に数えられるのが通例である。父マルシャルは、軍服製造業を継いで経営し、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった。二度妻と死別した後にセレステ・ドフレネと結婚し、その間にギュスターヴが生まれた。その後、弟のルネとマルシャルが生まれた。1860年に父がパリ南郊のイエールに広大な地所を購入し、一家は夏をそこで過ごすようになった。このころから絵を描き始めたと思われる。
リセ・ルイ=ル=グランに通った後、1868年に法学部を卒業し、1870年に弁護士免許を取得した。その直後に普仏戦争で徴兵されて従軍した。戦争が終わるとレオン・ボナの画塾に通って、本格的に絵の勉強を始め、1873年にエコール・デ・ボザールに入学したが、あまり登校しなかったようである。1874年に父が亡くなった。画塾でジャン・ベローと親しくなり、リセの先輩であるアンリ・ルアールを通じてエドガー・ドガと知り合った。1875年、初期の代表作『床削り』を制作して、サロンに提出したが、「低俗」と評されて落選した。この頃から、印象派の友人たちの作品を購入するようになっていった。
1876年の第2回印象派展には、ルノワールとルアールの連名の手紙による勧めで参加し、8点を出品した。極端な遠近法と都市労働者の情景で注目された『床削り』のほか、ブルジョワの風俗を描いた作品も出した。エミール・ゾラは、ドガとカイユボットを写実的すぎると批判したが、ルイ・エドモン・デュランティは鋭いデッサン力を称賛し、ジョルジュ・リヴィエールは彼を「ドガの弟子」と呼んだ。同年11月に弟ルネが26歳で亡くなると、衝撃を受け、28歳で遺言書を作成した。内容は、印象派と呼ばれる画家たちの展覧会の準備資金に遺産から相当額を割り当てること、ルノワールと弟マルシャルを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ遺贈することなどだった。1877年4月に、自分が借りたアパルトマンを会場に第3回印象派展を開き、『パリの通り、雨』や『ヨーロッパ橋』など6点を出品した。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』や、モネの『サン=ラザール駅』も購入した。
しかしグループ内ではサロンへの応募をめぐる意見の対立が顕在化し、カイユボットは、ドガの芸術を敬愛しながらも、その狷介な性格に辟易して、しばしば対立した。1878年10月に母が亡くなり、両親の遺産を弟とともに相続した。1879年の第4回展では、モネの作品29点を所蔵者から借り集めて出品した。1880年の第5回展でも、ドガと意見が合わなかった。1881年1月にピサロへ宛てた手紙では、「ドガはすばらしい才能の持ち主だ。私は彼の大ファンになった最初の人間です」と書く一方、ドガが不和を持ち込んだと批判し、ついに第6回展への参加を断念した。同年、弟とともにイエールの地所を売却し、セーヌ川沿いのプティ・ジュヌヴィリエに地所を購入した。1882年初頭には第7回展の準備を始め、ラファエリの不参加を条件にドガの参加を認める妥協案を示したが、交渉は難航した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ロマネス (1894年没)
- コシュート・ラヨシュ (1894年没)
- ロバート・ルイス・スティーヴンソン (1894年没)
- Agostina Livia Picapiedra (1894年没)
- シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール (1894年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=ドミニック・ボービー (1997年没)
- ジャン=バティスト・カルポー (1875年没)
- オーギュスタン・ジャン・フレネル (1827年没)
- フランス・ギャル (2018年没)
- サミュエル・ビング (1905年没)