伝記
オーギュスタン・ジャン・フレネルは、フランスの物理学者・土木技術者である。トマス・ヤングとは独立に光の波動説を唱え、光の回折や複屈折現象など、光学に関する理論的研究を行った。灯台用のフレネルレンズを発明するなど、実用的な研究にも業績を残した。1788年5月10日、ノルマンディーのブローイに生まれた。四人兄弟の次男で、父は建築家のジャック・フレネル、母はオーギュスティーヌ・メリメである。一家は1789年から翌年にかけてシェルブールに移り、1794年には父の故郷マチューに移った。母はそこで25年間未亡人として暮らした。長男ルイは砲兵の中尉となり、スペインで戦死した。三男レオノールは土木技師として彼のあとを継いで灯台委員会の書記を務め、全集の編集を助けた。末弟フルジャンスは言語学者・外交官・東洋学者となった。母の弟は画家で、のちに作家プロスペル・メリメの父となった。
兄弟は、当初母から家で教育を受けた。病弱なオーギュスタンは最も出来が遅いと見られ、暗記を好まなかった。子供時代は8歳になっても読み書きができなかったともいうが、この通説には異論がある。9歳か10歳のころは、木の枝をよく働きすぎる弓や玩具の武器に作る腕前のほか、目立つところがなかったという。1801年に兄ルイに付き添ってカーンの中央学校に入ると、成績が上がり、1804年に16歳でエコール・ポリテクニークに入学した。図面と幾何学に卓越した才能を示し、1年目にはルジャンドルが提示した幾何学の問題の解で賞を受けた。2年後、国立土木学校に入学し、1809年に卒業して、土木局に技師補として入った。その後ヴァンデ県、ドローム県、イル=エ=ヴィレーヌ県の技師を歴任し、道路建設などに携わった。仕事の合間に光学の実験をした。両親はカトリックのジャンセニストで、本人も生涯ジャンセニストであり、自分の才能を神からの賜物と考え、他者のために用いることを務めと考えた。
1815年、ナポレオンがエルバ島を脱出してフランス本土に上陸すると、フレネルは国王ルイ18世のために戦おうとした。このために技師としての職を失い、警察によって軟禁状態に置かれた。失職したことで自由な時間を得、光学の実験に没頭できた。この時期に、光の波動性によって回折現象が説明できることを示した。百日天下が終わって復職し、パリで技師の仕事を再開した。ホイヘンスやヤングらの従来の波動説では、光は音波と同様に縦波と考えられていた。フレネルは偏光の振る舞いから光の波動説を実証し、振動方向が進行方向に垂直な横波であるという結論を得た。この結果は1818年に論文として発表された。複屈折を説明できることから、広く受け入れられるようになった。同年には、地球のように運動する物体の光行差の研究も行った。
フランソワ・アラゴとともに光学理論をまとめ、1823年に偏光の変化に関する論文として発表した。この功績により、同年にフランス科学アカデミー会員に選ばれた。1824年にはロンドン王立協会のランフォード・メダルを受賞し、翌年に王立協会の外国人会員になった。灯台では、それまで1枚の巨大なレンズが作られていたが、薄い複数枚のレンズを組み合わせて、同様の性能を実現した。病弱で、絶えず結核に悩まされ、1827年7月14日にパリ近郊のヴィル=ダヴレーで39歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュー・クラッパートン (1827年没)
- ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ (1827年没)
- ヴィルヘルム・ミュラー (1827年没)
- チャールズ・ウィルソン・ピール (1827年没)
- ピエール=シモン・ラプラス (1827年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・モーロワ (2013年没)
- ゾグー1世 (1961年没)
- ミッシェル・デルペッシュ (2016年没)
- ジョルジュ・ソレル (1922年没)
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