伝記
ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスは、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前299年に執政官(コンスル)を務めたが、その任期のうちに世を去った。生年は伝わっていない。
出身はパトリキ(貴族)のマンリウス氏族である。マンリウス氏族はローマ共和政でも最も古く、名高い貴族の家の一つで、紀元前480年にはグナエウス・マンリウス・キンキンナトゥスが執政官に選ばれていた。一族には、紀元前4世紀初めの執政官マルクス・マンリウス・カピトリヌスや、同世紀の執政官ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスもいる。父も祖父もプラエノーメン(個人名)はティトゥスであった。おそらく祖父は執政官を三度務めたインペリオスス・トルクァトゥスで、父は紀元前340年に軍規違反の罪でそのトルクァトゥスが処刑した長男と思われる。この祖父は軍事上の成功で知られるとともに、軍規に背いた自分の息子を処刑したことでも名高い人物である。
紀元前299年、トルクァトゥスは執政官に就任した。同僚執政官は平民(プレブス)のマルクス・フルウィウス・パエティヌスである。第三次サムニウム戦争が始まるのはその翌年だが、エトルリアはすでにローマとの戦争を決意していた。エトルリアは以前の条約を破り、ガリア人の傭兵を雇ってローマ領を略奪した。このエトルリアへの対処がトルクァトゥスに割り当てられた。
ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』によれば、トルクァトゥスは敵地に入ったばかりのころ、騎兵を訓練して全速力で馬を旋回させる際に落馬し、ほとんどその場で死にかけたという。そして3日後に死亡した。自分の騎乗技術を披露している最中の事故だったともされる。ただし、一部の歴史家はこの出来事の史実性に疑問を呈している。トルクァトゥスは単にこの地でガリア人やエトルリア人と戦って死んだだけかもしれないというのである。
後任として、マルクス・ウァレリウス・コルウスが補充執政官に選ばれ、対エトルリア戦を戦うことになった。コルウスは決戦を強いようとして農村部を略奪して回ったが、エトルリア軍は出撃してこなかった。この戦いでは、ガリア人が同盟から離れ、エトルリア人は単独でローマの軍勢に向き合うことになったともいわれる。トルクァトゥスの子については不明である。紀元前244年と紀元前241年の執政官アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクスや、紀元前235年の執政官ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスは孫とも、別の親族ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- アリストクセノス (紀元前 299年)
- リュシッポス (紀元前 299年)
- Aristaeus the Elder (紀元前299)
- デイダメイア (紀元前299)
- ルキウス・ウォルムニウス・フランマ・ウィオレンス (紀元前 299年(推定))
同じ地域に関係する人物
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