伝記
アブー・バクル・バーキッラーニーは、イスラーム教スンナ派の神学者、法学者、論理学者であり、ハディースにも通じた学者とされる。アシュアリー派の神学理論を発展させた人物で、修辞と弁論に優れ、同時代の人々よりもカラーム(神学)とフィクフ(聖法学)の諸問題の議論に精通しているとみなされた。スンナのシャイフ、ウンマの舌、信仰の柱、イスラームの守護者、スンナの剣など、敬意を込めた尊号が数多く伝わっている。
正確な生年は不明で、940年頃とも、ヒジュラ暦338年(950年頃)ともいわれるが、後者の根拠は弱いとされる。バスラで生まれたとされ、通称が青果商を意味する語と読めることから、青果商の息子だったと推測されてきた。ただしイブン・ハッリカーンは、これは誤記から生じた呼び名で、本来は地名に由来する呼称だったに違いないと指摘している。いずれにせよ、この呼び名で呼ばれることが定着した。成人してからは生涯の大半をバグダードで過ごした。そこでアシュアリー派の神学者から法源学を、マーリキー派の法学者から法解釈学を学び、聖法学はシーラーズィーやイブン・アビー・ザイド・カイラワーニーにも学んだ。各師からイジャーザ(教授の許可)を受けると、バグダードでアシュアリー派の神学とマーリキー派の聖法学を教え始めた。シーラーズでアドゥド・アッダウラの子の教育係を務めたのち、975年頃にバグダードへ向かったとも伝えられる。バグダードや近郊のウクバラで法官長を務めたともされる。
その説教は非常に評判を呼び、同時代の高名な学者がしばしば討論に訪れた。あまりに弁論と討論に巧みだったため、ブワイフ朝のアミールはコンスタンティノープルのビザンツ宮廷への使節に彼を選んだ。ヒジュラ暦371年、西暦981年から982年頃のことで、皇帝の前で正教会のキリスト教徒と議論させたという。その論争や弁駁の巧みさを伝える逸話は多く、カーディー・アイヤードがそれらを集めているが、中には情報源として不適切なものも含まれる。
思想の面では、クルアーンの模倣不能性こそが預言者ムハンマドの預言者性を証明するとする説、クルアーンは永遠の神の言葉であるとする説(ジャフミー派への反駁)、執り成しの問題、神の可視性の問題などを論じた。著書『インサーフ』では、神を身体や方向、場所によって規定することを退け、聖典の擬人的な表現を字義どおりに読むことに反対した。ただし970年頃に書いた若い頃の著作『タムヒード』では、神に怒りや満足といった感情を帰し、神は玉座の上に位置するという考えも認めていたとされ、その思想は後に変化したようである。一方で、後のジュワイニーのように比喩的な解釈を踏み込んで示すことはせず、アシュアリーの立場にとどまったとされる。神の言葉については、内的な言葉と、音や文字で表される言葉とを区別する考え方をすでに示していた。
バーキッラーニーは、ヒジュラ暦403年ズルカアダ月26日、西暦1013年6月14日前後に亡くなり、バグダードでアフマド・イブン・ハンバルの傍らに葬られたという。弟子にはクシャイリーやバイハキーらがいたとされる。カーディー・アイヤードの作成した著作目録は42点に及ぶが、現代まで伝わるのは6点のみである。イブン・タイミーヤは、アシュアリー派の神学者の中で最もすぐれた人物はバーキッラーニーだとし、空前絶後の存在だと評した。
同じ年に亡くなった人物
- ヒシャーム2世 (1013年没)
- レニエ4世 (エノー伯) (1013年没)
- アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー (1013年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャアファル (803年没)
- シメオン・バル・サバエ (341年没)
- ラッバーン・バール・サウマ (1294年没)
- イブン・アル・ジョーズィー (1201年没)
- イブン・ハンバル (855年没)