HISTORICAL PERSON · 1020年代没

清少納言

平安中期の女房・歌人で、随筆『枕草子』の作者。中古三十六歌仙の一人。993年冬ごろから中宮藤原定子に仕え、漢学にも通じ、香炉峰の雪の逸話などを書いた。定子の死後まもなく宮仕えを辞した。

生涯
1020年代没
死亡地
日本(京都府 / 京都市)
出生地
律令日本(平安京)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

清少納言は、平安時代中期の女房、作家、歌人で、随筆『枕草子』の作者として知られる。生没年は康保3年(966年)ごろから万寿2年(1025年)ごろとされるが、これは岸上慎二の推定であり、正確なことは分かっていない。本名も不明で、江戸時代の国学者が唱えた清原諾子という名にも根拠は示されていない。「清少納言」は宮中での女房名で、「清」は清原姓に由来するとされるが、「少納言」の由来は不明で、研究者によりいくつかの説が唱えられている。中古三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人にも数えられる。

父は清原元輔である。受領などを務めた下級貴族だったが、『万葉集』の読解と『後撰和歌集』の撰者を務めた著名な歌人で、曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父であった。生年は、息子を産んだときに17歳ほどだったと見て逆算する岸上説がほぼ定説になっている。974年には、父の周防守赴任に同行し、今の山口県防府市で4年を過ごした。981年ごろ、橘則光と結婚して一子則長を産んだが、のちに夫婦仲は破綻した。それでも則光とは、定子に出仕した頃には「妹背」の仲とされ、宮中公認だったという。その後、父の友人であった藤原棟世と再婚し、娘の小馬命婦をもうけたとされる。

一条天皇の時代の正暦4年(993年)冬ごろから、中宮藤原定子に仕えた。博学で気が強く、定子に深く愛され、内裏の局として小廂を賜った。『枕草子』には、源俊賢が彼女の機知に感心して、「やはり内侍に推挙しよう」と語る場面がある。漢学にも通じ、「香炉峰の雪」の逸話は白居易の詩をもとにしたもので、第8段では前漢の丞相于定国が門を広く作った故事を踏まえた会話を行うなど、漢籍の教養がうかがえる。恋人ともされる藤原実方との贈答も知られる。しかし長保2年(1000年)に定子が出産で亡くなると、まもなく宮仕えを辞した。その後の生涯は不明な点が多く、断片的な資料から、夫棟世の任国である摂津に下ったと考えられる。角田文衞は、定子の遺児である媄子内親王と脩子内親王の養育を請われて再出仕し、紫式部らと接触したとする説を唱えるが、証拠はなく、『紫式部日記』の評価が唯一の文献である。

寛仁元年(1017年)には、兄の清原致信の邸で、その殺害に居合わせたと『古事談』は伝える。老後の動静は不明で、桂にあった父の別荘の隣や、夫の別荘のあった「月の輪」などに隠棲したと想像されている。歌人としては、42首の小さな家集『清少納言集』が伝わり、勅撰和歌集に15首が入る。しかし『枕草子』のなかでは、名歌人の子であるのに歌が下手だと父の名に障ると述べ、詠歌を免除してほしいと願って、定子に許された逸話を語っており、自身は歌才を高く評価していなかったようである。藤原行成に贈ったとされる「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌は、小倉百人一首に採られている。

後世には、鎌倉時代の『無名草子』や『古事談』が、零落した晩年の姿を伝えるようになり、全国各地に、彼女が訪れたという伝説も生まれた。角田文衞は、定子の遺児や、藤原斉信、行成、公任といった旧知の人々が健在であった以上、老いて放置され零落したとは考えにくいと否定している。

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