伝記
ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは、1824年9月4日にリンツ近郊の村アンスフェルデンで、学校教師で校長を務める同名の父と、地主の娘である母のもとに、12人兄弟の長男として生まれたオーストリアの作曲家であり、オルガニストである。6人の兄弟は幼少時に亡くなり、弟妹の病気と死の悲劇的な経験が彼の精神に影響したという。教師でオルガニスト、ヴァイオリニストでもあった父は、息子の才能に多大な関心を示し、村の教会のオルガンで初歩の音楽を教えた。1835年の冬、11歳で、近郊の村で和声と対位法を教える従兄弟の神父のもとに預けられたが、1837年に父が重い肺炎で危篤となり、生地に呼び戻された。父は同年6月7日に死去し、その日、母は12歳のアントンを連れて、近郊のザンクトフローリアン修道院へ葬式の手配に行き、主任神父ミヒャエル・アルネートに息子の世話を頼んだ。
同年7月に修道院の寄宿生となり、聖歌隊に加わって、宗教と音楽の教育を受けた。「トネルル坊や」と呼ばれた彼は、校長に音楽理論と対位法を、エドヴァルト・クルツに和声を学び、「オルガンのベートーヴェン」とあだ名されたアントン・カッティンガーにオルガンを師事した。1840年、学習課程を修了すると、家庭の困窮を思い起こして、父と同じく教員になる道を選んだ。同年10月に教員養成学校に通うためリンツに移り、ベートーヴェンとウェーバーの音楽に影響を受けた。翌年に補助教員となったが、ボヘミア国境近くの辺鄙な村の暮らしになじめず、肥やし撒きの仕事を拒否した事件をきっかけに、アルネートの判断で、1843年にクローンシュトルフへ転勤した。そこでバッハの平均律クラヴィーア曲集を夜中まで分析し、近くのシュタイアーのゴシック様式の教会とオルガンにも大きな影響を受けた。
1846年、21歳で聖フローリアン修道院の教師として戻り、1851年にはカッティンガーの後任として修道院のオルガニストとなった。1855年にリンツ大聖堂のオルガニストの登用試験を聴きに行ったところ、審査員の一人に促されて演奏し、素晴らしい即興を披露して、思いがけずその座を勝ち取った。同じ1855年に作曲した『ミサ・ソレムニス』が作曲家の目に留まり、ウィーンの理論家ジーモン・ゼヒターを紹介された。同年から1861年までの6年間、ゼヒターに和声法と対位法を学び、その間、ゼヒターはブルックナーに自由作曲を一切禁じたという。1861年11月21日の試験では、与えられた主題でフーガを即興演奏し、ヘルベックは「彼が我々を審査するべきだった」と呟いた。さらに1861年から1863年まで、10歳若いオットー・キッツラーに楽式と管弦楽法を学んだ。オルガニストから作曲家に転じた彼の修行は、極めて晩学で特異なものであった。キッツラーの影響で、1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーにも傾倒した。
1867年にゼヒターが死去し、翌1868年にヘルベックの説得でウィーン国立音楽院の教授に就任し、リンツ大聖堂の職を2年兼任したのちにウィーンへ移住した。オルガニストとしての仕事はクロスターノイブルク修道院で1894年まで務め、宮廷オルガニストにもなった。ナンシーやパリのノートルダム大聖堂にも演奏旅行をし、そのフーガの即興演奏はサン=サーンス、フランク、グノーらに絶賛された。以後は大部分のエネルギーを交響曲に集中させ、第1番ハ短調、第2番ハ短調などを書いた。1896年10月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームス・アボット (1896年没)
- ルートヴィヒ・ザイデル (1896年没)
- ウィリアム・モリス (1896年没)
- ポール・ヴェルレーヌ (1896年没)
- クララ・シューマン (1896年没)
同じ地域に関係する人物
- アドルフ・ロース (1933年没)
- エミール・フォン・ザウアー (1942年没)
- エレオノーラ・ゴンザーガ (1655年没)
- ニコライ・トルベツコイ (1938年没)
- ヨハン・シュトラウス1世 (1849年没)