HISTORICAL PERSON · 紀元前281年没

リュシマコス

アレクサンドロス大王に仕えた将軍で、のちトラキア・小アジア・マケドニアの王。ディアドコイの一人としてトラキアに拠り、後継者戦争を戦った。

生涯
紀元前281年没
死亡地
トルコ共和国(マニサ県 / Curupedion)
出生地
ギリシャ共和国(ペラ)
出典
世界地図
トルコ共和国(マニサ県)

伝記

リュシマコスは、アレクサンドロス大王に仕えたマケドニア王国の将軍で、大王の死後はトラキア、小アジア、マケドニアの王となった人物である。生年は紀元前360年ごろ、没年は紀元前281年で、在位は紀元前306年からとする説明が一般的だが、紀元前304年に王を称したともいわれ、マケドニア王の期間も紀元前285年から紀元前281年とされるなど、年代には幅がある。ディアドコイ(後継者)の一人として、トラキアを拠点にディアドコイ戦争を戦い抜いた。

テッサリア出身で宮廷の道化師だったアガトクレスの子として、マケドニアのペラで生まれた。大王の東方遠征には側近護衛官の一人として加わり、紀元前326年のサンガラでのインド人との戦いで負傷した。インドの哲学者カラノスに師事し、カラノスの死に際しては彼の馬を贈られたという。教養のある人物で、哲学者カリステネスとも親しかったと見られる。ユスティヌスの伝えによれば、大王の怒りを買って見世物にされたカリステネスを哀れみ、毒を与えて死なせたため、大王に怒られてライオンの檻に投げ込まれたが、素手でライオンを倒して感嘆され、許されたとされる。

紀元前323年のバビロン会議でトラキアとケルソネソスの太守に任じられ、オドリュサイ人の王セウテス3世と戦った。紀元前321年ごろに帝国摂政アンティパトロスの娘と結婚し、のちのアルシノエ1世を含む3人の子をもうけた。アルシノエ1世はプトレマイオス2世ピラデルポスの最初の王妃となった。ディアドコイ戦争ではカッサンドロスを支持し、紀元前315年には強大化したアンティゴノスに対抗して、カッサンドロス、プトレマイオス、セレウコスと同盟した。紀元前306年にアンティゴノスが王を称すると、彼も倣って王を称した。紀元前301年のイプソスの戦いではセレウコスと連合してアンティゴノスを敗死させ、リュディア、イオニア、フリュギアと小アジア北岸を得た。ただ、その後はセレウコスの強大化を警戒してプトレマイオスと結び、妃のアマストリスと離婚してプトレマイオスの娘アルシノエ2世と再婚した。紀元前294年にはデメトリオスと講和し、その後はエピロス王ピュロスとともにマケドニアに攻め込んで、紀元前288年にデメトリオスから国を奪った。しばらく共同統治したのち、紀元前284年にピュロスを追放して単独のマケドニア王となった。

晩年は後継者問題に苦しんだ。アルシノエ2世が自分の息子に王位を継がせようと、長子アガトクレスに陰謀を企て、讒言を受けたリュシマコスは紀元前284年ごろにアガトクレスを処刑した。この事件で多くのアジアの都市が反乱を起こし、アガトクレスの友人たちもセレウコスの側へ移った。アガトクレスの未亡人リュサンドラがセレウコスのもとへ逃れると、セレウコスはリュシマコスのアジア領へ攻め込んだ。このとき、リュシマコスは79歳、セレウコスは77歳だったという。紀元前281年のコルペディオンの戦いで、リュシマコスはマラコンというヘラクレイア人の槍を受けて敗死した。遺体は彼の犬が鳥や獣から守り続け、息子アレクサンドロスのもとに届けられ、リュシマケイアに埋葬されたと伝わる。

彼の王国はセレウコスに併合されたが、そのセレウコスも同行者のプトレマイオス・ケラウノスに暗殺され、王位はケラウノスが継いだ。ビテュニアのニカイアは、紀元前300年ごろ、亡き妻ニケアにちなんで、リュシマコスが街の名を改めたものとされる。

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