伝記
献哀王后は、高麗の第5代王景宗の第3王妃で、第7代王穆宗の母である。皇甫氏の出で、諡号は応天啓聖静徳王太后という。晩年の住まいにちなむ千秋太后の名でも知られる。964年に生まれ、1029年に66歳で世を去った。夫の景宗は955年生まれ、長男の穆宗は980年生まれで、穆宗は王母の失脚と同じ1009年にこの世を去っている。
父は太祖の王子の王旭、母は柳氏で、成宗となる王治は同母の兄にあたる。同母の妹に献貞王后もいた。この妹は992年に亡くなり、のちに第8代王となる顕宗の実母にあたる。顕宗は992年に生まれ、王太后から見れば甥である。成宗は960年の生まれで、997年に没した。両親は早く亡くなり、きょうだいは祖母の神静王后に育てられたとされる。王室の風習に従い、外祖母にあたる神静王后にちなんで皇甫姓を名乗った。従兄にあたる景宗の宮廷に妹とともに入り、第3王妃となった。景宗には他の二人の王妃との間に世継ぎがおらず、王后が身ごもったときには王が大いに喜んだといわれる。こうして長男の王訟が生まれたが、景宗は981年に没し、王訟はまだ2歳であった。王位は王后の兄が継いで成宗となり、王后は太后として千秋宮に住んだ。儒教を国の柱にしようとした成宗は、二人の妹に対して純潔と貞節を重んじるよう求めたとされる。成宗に子はなく、王訟を後継ぎと定めて宮中に迎え、わが子のように育てたという。
997年に成宗が亡くなると、王訟が即位して穆宗となり、王太后が摂政をつとめた。穆宗の即位を機に、王太后は自らの居住宮にちなんで千秋太后と名乗るようになった。このころ王太后は、母方の親戚にあたる金致陽と情を交わすようになっていた。金致陽は若いころ僧を装っていたともいわれる。関係が公然と知られると宮中は混乱し、成宗は金致陽を貴陽へ送って事態を収めた。ところが摂政となった王太后は、金致陽を呼び戻して官職を与え、次々に昇進させた。やがて右僕射兼三司事に任じられたが、三司事は当時の高麗で財政権と人事権を併せ持つ職であり、金致陽は大きな権限を握った。
王太后は、自らの本拠地である西京を優遇する政策を進めたほか、金致陽の出身地である瑞興に星宿寺を建てるなど、各地に道観や寺院を造営した。1003年には金致陽との間に息子が生まれた。金致陽はこの子を、子のない穆宗の後継ぎにしようと企てたともいわれる。そのため二人は、障害となる甥の王詢の命を何度も狙ったが、いずれも失敗に終わったとされる。王詢は太祖の子を父にもち、成宗の存命中は手厚く守られていたが、成宗の死後は立場が危うくなった。王太后が彼を宮廷から出して僧にさせ、人を遣わして殺そうとしたともいわれる。
1009年、西北面の軍を預かる康兆が政変を起こした。金致陽が宮殿の満月台を焼き、王を殺して実権を奪おうとしたとの話もあり、穆宗は康兆を都へ呼び戻していた。金致陽と、6歳ほどになっていたその息子は処刑され、王太后は流罪となった。穆宗は廃位され、幽閉先へ向かう途中で康兆の部下に暗殺された。王太后は政界から完全に退けられ、康兆らは王詢を王位に推して顕宗とした。王太后は流罪を解かれたのち黄州に移り、そこで余生を送った。顕宗20年(1029年)に王宮へ戻され、崇徳宮で薨去した。墓所は幽陵である。その生涯は、2009年にKBS2で放送されたテレビドラマ「千秋太后」でも描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- Kushyar Gilani (1029年没)
- ガルシア・サンチェス (カスティーリャ伯) (1029年没)
- アル=カラジ (1029年)