伝記
エルンスト2世は、中世ドイツのシュヴァーベン大公(在位1015年〜1030年)である。生年は1010年頃とされ、一説には1010年から1013年の間ともいう。バーベンベルク家の出で、父はシュヴァーベン大公エルンスト1世、母はシュヴァーベン大公ヘルマン2世の娘ギーゼラである。父エルンスト1世はオーストリア辺境伯レオポルト1世の子で、コンラディン家最後のシュヴァーベン大公ヘルマン3世の姉妹ギーゼラと結婚した。1012年にヘルマン3世が嗣子なく没すると、国王ハインリヒ2世からシュヴァーベン大公位を受けた人物である。つまりエルンスト2世の母方の伯父にあたるヘルマン3世が、コンラディン家の最後の大公であった。その父が1015年に没すると、長子のエルンスト2世が大公位を継いだ。まだ幼かったため、統治は摂政が担い、はじめは母ギーゼラが、のちにはトリーア大司教で叔父にあたるポッポが務めたとされる。
母ギーゼラは夫の死後、ザーリアー家のコンラートと再婚した。再婚は1016年とされる。このコンラートが1024年に国王コンラート2世として選ばれ、エルンスト2世は王の義子という立場になった。国王はシュヴァーベンへの影響力を強め、両者の関係は次第に冷えていった。ギーゼラの母ゲルベルガが王ルドルフ3世の姉妹で、ギーゼラはその姪にあたったため、母子も国王もブルグント王位の継承を望みうる立場にあった。子のないルドルフ3世の没後をめぐる競争も、不和の種になったといわれる。
1025年、まだ十五歳ほどだったエルンスト2世は国王に反旗をひるがえした。国王選挙でコンラート2世に敗れたケルンテン公コンラートや、ヴェルフ家のレヒライン伯ヴェルフ2世らも、反乱に加わったとされる。しかし1026年には敗れて降伏し、続く1026年から1027年のイタリア遠征には義父に従って加わった。イタリアで国王は彼をシュヴァーベンへ送り返し、なお残る地元の抵抗を鎮めさせようとした。ところが戻ったエルンスト2世は、今度は反対派に身を投じて再び反乱を起こした。地元のシュヴァーベン貴族たちの支持が得られなかったため、またも敗れて降伏し、投獄された。母ギーゼラは国王の側に立ちながらも、息子が完全に辱められることは望まなかった。そのため大公の称号は保たれ、獄中の間は実際にはギーゼラが公国を治めたと考えられている。1028年に国王の子ハインリヒが戴冠すると、異父弟ハインリヒと母の願いによって釈放されたが、大公としての権限は完全には戻らなかった。
1030年の復活祭の帝国議会で、国王の敵に対して厳しく臨むなら新たな権限を与えようという提案を受けた。これが最後の機会であったが、エルンスト2世は拒んだ。敵方に旧友のヴェルナー・フォン・キーブルクがいたためとみられている。これにより大公位を失った。王国会議で追放刑を受けて剥奪されたと伝える記述もある。大公位は弟のヘルマン4世が継ぎ、まだ年少だったため、コンスタンツ司教ヴァルマンが摂政を務めた。
その後まもなく、エルンスト2世は友ヴェルナーとともにシュヴァーベンの黒い森に退いた。同年8月17日、ファルケンシュタイン城の近くで、コンスタンツ司教の軍勢や皇帝軍との戦いに臨み、二人とも戦死した。遺体はコンスタンツの大聖堂に葬られたとされる。独身で、嗣子はなかった。皇帝コンラート2世は訃報を聞いて、「こんなにかみついた子犬も稀だわなー」と述べたといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- マフムード (ガズナ朝) (1030年没)
- アダルベロン (ラン司教) (1030年没)
- オーラヴ2世 (ノルウェー王) (1030年没)
- Kresimir III of Croatia (1030年没)
- Ogive of Luxembourg (1030年没)
同じ地域に関係する人物
- オンドレイ・ネペラ (1989年没)
- エドゥアルト・シュプランガー (1963年没)
- エドゥアルト・メーリケ (1875年没)
- テオドル・ロース (1954年没)
- ヴィニフレート・ワーグナー (1980年没)