伝記
サンチョ3世ガルセスは、ヒメノ朝ナバラ王国の第6代国王(在位1004年〜1035年)である。バスク人の民族的英雄とされる初代国王イニゴ・アリスタの末裔にあたり、北イベリアの多くのキリスト教国家を支配下に収めて「イベリア王」を名乗ったことから、「大王」と称される。1035年10月18日に没した。
父はガルシア2世サンチェス、母はセア伯フェルナンド・ベルムデスの娘ヒメナ・フェルナンデスで、992年から996年のあいだに生まれたとされる。四人の祖父母のうち一人がナバラ人で、残りはレオンやカスティーリャの人々であった。幼少期はアルマンソルの最後の遠征の時代にあたり、父は同盟したカスティーリャ伯とともにこれに対抗した。父が世を去ったのち、父の従兄弟にあたる人物が一時、実権を握る空白期があった。サンチョは1004年から1005年にかけての時期に王位に就いたが、このときは十二歳に満たなかったとされ、司教たちと母ヒメナ、祖母ウラカからなる摂政会議の後見を受けた。アルマンソル死後のコルドバのカリフ国は内部の危機に陥り、1031年に廃された。キリスト教諸国はこの弱体化に乗じていった。
即位後のサンチョは、婚姻を軸にした外交で領土を広げた。1016年ごろと1018年ごろに東のソブラルベとリバゴルサを併合し、バルセロナ伯バランゲー・ラモン1世を臣従させ、相続していたアラゴン伯領と合わせて東へ勢力を延ばした。カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスは妻ムニアの弟で、幼少のためサンチョが後見人となっていたが、1029年にこの義弟が暗殺されると、妻の権利を通じてただちにカスティーリャを手中に収めた。この間にアラバ、ビスカヤ、ギプスコアなどナバラ西部も獲得している。1030年ごろからはレオン王ベルムード3世に干渉し、その姉サンチャを次男フェルナンドと結婚させて布石を固めた。1034年にレオンで貴族の反乱が起こると、鎮圧を名目に軍を進めてレオンを占領し、ベルムード3世をガリシアへ追いやって自らレオン王となった。ただし、この介入は電撃的な戦争であったとも、ベルムード3世との多少とも自発的な協力であったともいわれ、解釈が分かれている。「ヒスパニア皇帝」を名乗ったとする説もあるが、その根拠とされた貨幣は後代のものとされ、確かな裏付けはない。
内政では、居城をナヘラに置いて宮廷と首都をパンプローナから移し、ピレネー山脈の北にも目を向けた。1010年にはサントンジュを訪れ、フランス王や諸侯と会っている。ローマ教皇庁との関係を結んだ最初のナバラ王でもあった。クリュニー修道院の修道士を招いて司教区の整備と修道院改革を進め、クリュニー修道院長オディロンと書簡を交わした。封建制度を導入し、ヨーロッパからの移民を奨励した。こうしてサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路沿いに町が次々と生まれ、フエロによる自治都市が発達する先駆けとなった。レコンキスタには熱心ではなかったが、辺境に城塞網を築き、側近の貴族に支配を委ねて防衛と封建制度を整えた。
妻はカスティーリャ伯サンチョ・ガルシアの娘ムニア・エルビラである。庶長子ラミロ1世は新設のアラゴン王国を、嫡男ガルシア3世はナバラ王国を、三男フェルナンド1世はカスティーリャ王国を継いだ。フェルナンド1世は領土奪還をねらったベルムード3世を破ってレオン王にも即位した。四男ゴンサロはソブラルベ伯とリバゴルサ伯を継いだ。サンチョは、レオン併合の翌年にあたる1035年に没した。遺言によって領土を息子たちに分けたため、王国は急速に衰えた。
同じ年に亡くなった人物
- ヤロミール (ボヘミア公) (1035年)
- 犬のソーリル (1035年没)
- アフマド・イブン・ムハンマド・アル=サラビー (1035年没)
- ボードゥアン4世 (フランドル伯) (1035年没)
- ヤフヤー・アル=ムタリ (1035年没)
同じ地域に関係する人物
- ドミンゴ・デ・シロス (1073年没)
- エレノア・オブ・イングランド (1214年没)
- フェリックス・ロドリゲス・デ・ラ・フエンテ (1980年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル (1359年没)
- ベレンゲラ (カスティーリャ女王) (1246年没)