伝記
ベレンゲラは、1179年とも1180年ともいわれる年にブルゴスで生まれ、1246年11月8日に没したカスティーリャ女王で、「大女王」と呼ばれた。父はカスティーリャ王アルフォンソ8世、母はイングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの娘レオノールで、その長女にあたる。妹にポルトガル王妃ウラカ、フランス王妃ブランカ、アラゴン王妃レオノール、弟にエンリケ1世がいる。1158年にカスティーリャとレオンの王家が結んだ条約で、どちらかの王家が絶えれば他方が両国を相続することになっていたため、生まれた直後から後継者とされた。母から妹たちとともに、音楽や読み書き、宗教を教わって育った。
1187年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の息子コンラートとの婚約が決まり、翌1188年にはゼーリゲンシュタットで結婚契約が結ばれ、持参金は4万2千マラベディとされた。コンラートはカスティーリャへ赴き、カリオンで婚約式が開かれた。ところが1189年に弟フェルナンドが生まれて王位継承権が移り、母方の祖母アリエノールの介入もあって、婚約は破棄された。1195年、父がムワッヒド朝のアミール、ヤアクーブ・マンスールに大敗すると、婚約式にも出席していたレオン王アルフォンソ9世がカスティーリャへ侵攻した。1196年にコンラートが暗殺された翌1197年、レオンとの和睦を図る母の提案により、ベレンゲラはバリャドリッドでアルフォンソ9世と結婚した。レオン内の城や土地の支配権を得て、夫婦の仲は円満であったという。
しかし1198年から、教皇インノケンティウス3世が血縁の近さを理由に結婚に異議を唱え、二人は免除を求めたが退けられ、1204年に結婚は解消された。この間にレオノール、コンスタンサ、フェルナンド、アルフォンソ、ベレンゲラの5人の子をもうけたが、長女レオノールは1202年に亡くなった。ベレンゲラは1204年5月に両親のもとへ戻って父を補佐した。1206年に父とアルフォンソ9世が結んだ条約で、息子フェルナンドの王位継承権が確認された。1211年に弟フェルナンドが亡くなると、遺骸を運ぶ列を先導した。1212年、父がナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に勝つと、その報告をフランスのブランカへ書き送った。
1214年に父と母が相次いで没し、末弟エンリケ1世が幼くして即位したため、ベレンゲラが後見人として政治を取り仕切った。摂政の地位をめぐり重臣と争い、エンリケ1世はララ家に取り込まれたが、1217年6月6日、エンリケ1世が跡継ぎのないまま事故死し、ベレンゲラが女王として即位した。国民が女王よりも聡明な息子フェルナンドの即位を望んだため、同じ年のうちにレオンから息子を呼び寄せて即位させ、自身は後見人となった。
1230年に元夫アルフォンソ9世が没すると、レオンの王位継承の問題に決着をつけるため、アルフォンソ9世の前妻テレサと話し合い、その娘サンチャとドゥルセに土地と年金を与えて、レオン王位をフェルナンド3世が継ぐことを取り決めた。こうしてカスティーリャとレオンは平和のうちに再統合された。レコンキスタでフェルナンド3世が遠征に出る間はカスティーリャを代理で治め、軍隊や食糧を送って後方から支えた。宗教施設を庇護し、両国の歴史書の執筆も支援した。1246年、ブルゴスのサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院で死去し、同修道院に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- アラー・ウッディーン・マスウード・シャー (1246年(推定))
- フリードリヒ2世 (オーストリア公) (1246年没)
- テムゲ・オッチギン (1246年没)
- ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン (1246年没)
- テオドラ・アンゲリナ (1246年)
同じ地域に関係する人物
- マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃) (1655年没)
- フェリックス・ロドリゲス・デ・ラ・フエンテ (1980年没)
- ベルムード3世 (1037年没)
- サンチョ・デ・アルブルケルケ (1375年没)
- フェルナン・ゴンサレス (970年没)