伝記
グンヒルト・フォン・デーネマルクは、のちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の妃となったデンマーク出身の女性である。1019年か1020年ごろに生まれ、1038年7月18日に亡くなった。父はイングランドとスカンディナヴィアにまたがる北海帝国の王クヌート1世、母はその2番目の妃エマ・オブ・ノーマンディーである。のちにデンマーク・イングランド王となるハーデクヌーズの妹にあたり、ノルウェー王スヴェンとイングランド王ハロルド1世の異母妹、イングランド王エドワード懺悔王の異父妹でもあった。
1025年ごろ、まだ子供だったグンヒルトはドイツに来た。ローマ王コンラート2世と妃ギーゼラ・フォン・シュヴァーベンの嗣子ハインリヒ3世との婚約は、デンマーク側のシュレースヴィヒ公領と帝国側のホルシュタイン伯領との国境の和平、とりわけキール周辺での平和のために、父クヌート1世が結んだ条約の一環であった。この結婚の合意は、1035年にクヌート1世が死去する前に交わされていた。ハインリヒ3世は1028年の復活祭に諸侯の同意を得て父から王位を受け、バイエルン公領とシュヴァーベン公領を与えられている。コンラート2世は一時、息子を東ローマ皇帝コンスタンティノス8世の娘ゾエと結婚させることも考えたが、実現しなかった。そこで1035年の聖霊降臨の日にバンベルクでグンヒルトとハインリヒ3世が婚約し、翌年ナイメーヘンで結婚した。この結婚に際して、グンヒルトはドイツ名のクニグンデに改名した。
トロワ=フォンテーヌのアルベリックとマームズベリのウィリアムの年代記には、グンヒルトが姦通の疑いで告発され、決闘裁判で身の潔白を争ったという話がある。代理人が勝利したものの、グンヒルトはその勝利を受け入れず、修道女になったと伝えられる。しかしその後まもなく、夫とは和解したとみられている。
1036年12月、皇帝コンラート2世はイタリア遠征に出発した。皇后ギーゼラは、ハインリヒ3世やグンヒルトとともにレーゲンスブルクで降誕祭を祝った。コンラート2世は短気なミラノ大司教アリベルトとの激しい争いで身動きが取れず、息子に支援を求めたため、ハインリヒ3世とグンヒルトも遠征に従った。イタリアでグンヒルトは夫妻の唯一の子ベアトリクスを産んだ。ベアトリクスは1037年に生まれ、1061年に亡くなり、のちにクヴェトリンブルクとガンダースハイムの女子修道院長となった。
ミラノの包囲は失敗に終わったが、1038年にコンラート2世はサレルノ侯グアイマーリオ4世とカプア侯パンドルフォ4世の領地争いの仲裁を求められた。皇帝は南イタリアに遠征してグアイマーリオ4世を支援し、カプアを手に入れてパンドルフォ4世を廃位した。この勝利で、南イタリアのほとんどの貴族が皇帝に忠実であることが明らかになった。ところが、ドイツへの帰路で、おそらくマラリアとされる伝染病が皇帝軍に広がり、多くの死者が出た。シュヴァーベン公ヘルマン4世とともに、グンヒルトもその犠牲になった。遺体はドイツへ運ばれ、リンブルクの修道院の教会に埋葬された。夫のハインリヒ3世がローマ王として戴冠したのは、コンラート2世が亡くなった1039年のことである。そのためグンヒルトは、1036年の結婚から亡くなるまでドイツ王妃と呼ばれる立場にありながら、王妃としての戴冠を受けることがなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルマン4世 (シュヴァーベン大公) (1038年没)
- ヒルデスハイムのゴーデハルト (1038年没)
- Abu Nu`aym (1038年没)
- アデライード・ド・ノルマンディー (1038年没)
- ヘルマン1世 (マイセン辺境伯) (1038年没)
同じ地域に関係する人物
- ユーリ・ルシコフ (2019年没)
- ペーター・ヴィンター (1825年没)
- ヨハン・フォン・アルドリンゲン (1634年没)
- Hans Jakob (1994年没)
- パウル・フォン・ハイゼ (1914年没)