HISTORICAL PERSON · 1059年没

ギゼルベルト (ルクセンブルク伯)

ザルム伯・ロンウィ伯から兄の死によりルクセンブルク伯を継承。トリーア大司教との修道院を巡る論争を弟に仲裁させ、人口増加に応じ街を要塞壁で拡張した。

生涯
1059年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ギゼルベルトは、1007年ごろに生まれ、1059年8月14日に没したルクセンブルク伯である。はじめザルム伯およびロンウィ伯であったが、1047年にルクセンブルク伯位を継ぎ、1059年までその地位にあった。

出自はルクセンブルク家で、父はモーゼルガウ伯フリードリヒ、母はおそらくグライベルク伯領のイルムトルートといわれる。母方はコンラーディン家の流れをくみ、フランケンの伯や公を出した家につながる。父フリードリヒは、ルクセンブルク家の祖とされるジークフリート1世の子で、のちの皇帝ハインリヒ2世の妃となるクニグンデの兄弟であった。つまりギゼルベルトの叔母クニグンデは、1000年ごろに、バイエルン公で、のちに皇帝となるハインリヒ2世と結婚した。1005年には、ギゼルベルトの伯父にあたるルクセンブルクのハインリヒが、この義弟の王からバイエルンを与えられた。姉妹のオギヴは1012年にフランドル伯ボードゥアン4世と最初の結婚をしたとされる。父は1019年に亡くなり、長兄ハインリヒがモーゼルガウ伯となり、次兄フリードリヒがスタヴロとマルメディの修道院の守護者となった。1026年にはバイエルン公でもあった叔父ハインリヒが死に、兄のハインリヒ(ルクセンブルク伯としては2世)がその伯位を継いだ。この兄は叔父からビードガウ伯領とトリーアのザンクト・マクシミン修道院も受け継いだ。

ギゼルベルトはまずザルム伯およびロンウィ伯であった。1035年の文書には、ザルム伯の称号を帯びた証人として名が見える。1036年にも、兄弟のフリードリヒ、ディートリヒとともに、叔父アダルベルトの遺言に関する文書の証人として挙げられている。ザルム伯となったのは結婚によるとする見方がある。

兄のハインリヒ2世は、フリシンゲンからの帰途の1047年に亡くなった。一方、没年を1048年とし、側近に絞め殺されたとする記録もある。ギゼルベルトは兄のあとを継いでルクセンブルク伯となり、トリーアのザンクト・マクシミン修道院とエヒタナハのザンクト・ヴィリブロルト修道院から収入を得る立場も引き継いだ。トリーア大司教ポッポとのあいだで、ザンクト・マクシミン修道院をめぐる論争に巻き込まれたが、弟でメッツ司教のアダルベロ3世が仲裁に入った。この論争は、領地をトリーア方面やケルン方面に広げようとした動きと関わっていたともいわれる。

1050年には、ルクセンブルクの人口がかなり増えたため、街の周囲に新たな要塞壁を築いて、街の面積を拡張した。1059年8月14日に世を去った。イタリアで反乱のさなかに死んだとする説もある。妻の名や出自は不詳である。子には、のちにルクセンブルク伯となるコンラート1世(1040年ごろ〜1086年)、ザルム伯家の祖でドイツ対立王(1081年〜1088年)となったヘルマン、ディートリヒ・フォン・アンメンスレーベンの妻となった娘、オルティゲン伯クノの妻となった娘、メッツの司祭でのち1097年にアンティオキアで没したアダルベロ、リンブルフ伯ウドの妻となったユッタ、アルトミュンスター修道院長となったルドルフがいる。コンラート1世はアキテーヌのクレマンスと結婚した。ルクセンブルク伯位は子のコンラートが継ぎ、ザルム伯領はヘルマンのものとなった。このことから、ギゼルベルトは結婚によってザルム伯となり、ヘルマンは妻の先夫との子だったとする見方もある。

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