伝記
ミカエル6世ストラティオティコスは、東ローマ帝国の皇帝(在位1056年 - 1057年8月31日)である。生年は不明で、1059年に没した。中世ギリシア語読みではミハイルとなる。姓はブリンガスで、「ストラティオティコス」の呼び名は、官僚として軍の財務を担う長官(ロゴテテス)の職にあったことによる。軍事に長けていたという意味ではなく、好戦的な人物を指す語に通じるため、官職名にちなむ呼び名とも考えられている。
背景には、マケドニア朝の終わりがあった。コンスタンティノス8世は男子を残さずに没し、その娘ゾエが次々に夫を迎えて帝位に就け、ゾエの没後は妹のテオドラが単独で女帝となった。テオドラは助言者や総主教が勧める共同皇帝を退けて自ら統治したが、その治世は19か月にとどまった。女帝が死に瀕したとき、宮廷の宦官たちが集まって後継者を探し、自分たちに忠実で、高い地位を守ってくれる人物として、仲間である元老院議員のミカエル・ブリンガスを選んだ。テオドラは彼をただちに養子とし、後継者に定めた。総主教ミハイル・ケルラリオスは女帝の自由な意思を疑い、戴冠の前に、話すこともできないほど衰えた女帝に、せめて身振りで決定を確認するよう求めたという。
こうして1056年に即位したミカエルは、すでに高齢であった。同時代の歴史家たちは彼を「老人ミカエル」と呼んでいる。皇妃が戴冠した形跡はなく、後を継ぐ子もいなかったため、独身か男やもめだったとみられる。そのため、この治世は権力をめぐる争いを終わらせることができなかった。即位後は文官を重んじて軍事を軽んじる政治を行ったとされ、軍人たちの反感を買った。
ブリンガス家は以前にも高官を出しており、10世紀には宦官のヨセフ・ブリンガスが大ドルンガリオスや元老院議長、パラコイモメノス(首相格の職)にまで昇った。ミカエル6世の政権の中心人物にはレオン・パラスポンディロスがいた。彼は宦官を各地の指揮官に登用することを意図していた可能性も指摘されている。
即位の翌年には反乱が起きた。皇帝軍も懸命に戦ったが、イサキオス・コムネノス(のちの皇帝イサキオス1世)の率いる反乱軍に敗れ、イサキオスの軍が首都コンスタンティノポリスに迫ると、ミカエル6世は皇位を譲って退位した。退位後は修道士となり、修道院で余生を送ったとされる。1059年に病没した。この短い治世の後も、帝国の有力者たちの争いは続き、内戦は1081年まで続いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1059年没)
- ベルンハルト2世 (ザクセン公) (1059年没)
- アブドゥッラー・イブン・ヤースィーン (1059年没)
- ギゼルベルト (ルクセンブルク伯) (1059年没)
同じ地域に関係する人物
- チャンダルル・ハリル・パシャ (1453年没)
- Nef'i (1635年没)
- Muzahir Sille (2016年没)
- Ahmet Tevfik Okday (1936年没)
- Ferhad Pasa (1595年没)