伝記
アンティオキアのヤヒヤ(ヤヒヤ・イブン・サイード・アル・アンターキー)は、11世紀のメルキト派のキリスト教徒で、医師、歴史家である。没年は1066年ごろとされる。アラビア語で著作を書いた。
ファーティマ朝下のエジプトで、980年ごろに生まれたとみられる。メルキト派のアレクサンドリア総主教エウティキオスの親族だったと伝えられるが、これはありそうにない話とされ、息子だったとする説も誤りとされる。医師として成功したが、カリフのハーキム・ビ・アムル・アッラーフ(在位996年から1021年)が行ったキリスト教徒への迫害のため、ビザンツ領のアンティオキアへ逃れることになった。逃亡は、ヒジュラ暦405年にあたる1014年から1015年のことと伝えられる。
主な著作は、エウティキオスの『年代記』の続編であり、938年から1034年までを扱う。さまざまな史料を用い、ビザンツ帝国、エジプトとファーティマ朝、イラクやグルジア、さらにブルガリアやキエフ・ルーシの出来事を記している。一方で、イランや西方イスラーム世界についての情報は少ない。アラビア語とギリシア語の両方に通じ、合理的で、超自然的な事柄に傾きにくい精神の持ち主だったとされる。ビザンツの領域で起きた出来事を、アラブの視点から伝える数少ない記録のひとつでもある。
アンティオキアにいたあいだには、キリスト教を擁護する神学の著作や、イスラームとユダヤ教を論駁する著作も書いた。アレッポの歴史家アル・アジーミーは、1065年から1066年(ヒジュラ暦458年)までを扱うヤヒヤ・イブン・サイードの年代記を出典に挙げているが、それが同じ人物かどうかはわからない。同じ人物なら、当時はかなりの高齢だったはずである。
この歴史書は、1924年にI・クラチコフスキーとA・ヴァシリエフが校訂して、『東方教父学』の第18巻、第23巻、第47巻に収められた。1997年にはバルトロメオ・ピローネがイタリア語に訳し、ヴィクトル・フォン・ローゼンによる部分的なロシア語訳もある。1977年のJ・H・フォーサイスによる英訳とされるものは、実際には研究にとどまる。
同じ年に亡くなった人物
- ウダヤーディチャヴァルマン2世 (1066年没)
- イブン・ブトラーン (1066年没)
- エリザヴェータ・ヤロスラヴナ (1066年)
- レオフウィン・ゴドウィンソン (1066年)
- アフマド・バイハキー (1066年没)
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