伝記
大テオドシウスは、後期ローマ帝国の軍人である。フラウィウス・テオドシウスの名でも知られ、376年に没した。のちの東方正帝テオドシウス1世の父であり、テオドシウス朝の祖にあたる。ラテン語での官職名はコメス・レイ・ミリタリスで、この「コメス」は中世ヨーロッパの伯爵の称号の語源になったとされる。西方正帝ウァレンティニアヌス1世に仕え、その軍は彼の指揮のもとで数々の脅威や侵入、簒奪を退けた。
史料に初めて名が現れるのは、アンミアヌス・マルケリヌスがブリタニアの秩序回復の任命に触れる箇所である。それ以前にどのような功績で皇帝の信頼を得たのかは分かっていない。ただ、これほど重要な任務を任されたからには、皇帝に以前から知られ、軍事的能力を認められていたはずだと研究者は推測している。
368年、テオドシウスは軍司令官の地位に引き上げられ、前年の大規模な蛮族の侵入で失われた北ガリアとブリタニアの回復に派遣された。皇帝の野戦軍の一部を率い、年初にはまず海峡の港ボノニア(ブーローニュ)へ進んだ。天候が一時的に和らいだ隙に海峡を渡ってルトゥピアエ(リッチバラ)に上陸し、情報を集めた。ブリタニアの部隊は、数で勝る敵との戦いを拒んだか、侵入が始まったとき休暇中だったことが分かった。敵は小さな略奪集団に分かれ、好き勝手に荒らし回っていた。春になって本隊が海峡を渡ると、テオドシウスは計画を固めており、ロンディニウム(ロンドン)へ進軍して帝国の支配を回復した。この都市を拠点に軍を小部隊に分け、周辺の略奪集団を攻撃させ、戦利品や物資、捕虜を取り戻した。脱走兵には恩赦を約束する使者も送って、ロンディニウムへ戻るよう命じた。
368年から369年の冬のあいだに多くの兵が部隊へ戻り、次の作戦に役立つ情報をもたらした。369年にはブリタニア全土を転戦して主要な町を立て直し、敵の戦闘集団や裏切り者を追い詰めた。パンノニア出身のウァレンティヌスが起こした反乱も鎮圧したと伝えられる。作戦期の終わりに、皇帝へブリタニアの諸属州が帝国に戻ったと報告し、新たに設けた属州をウァレンティアと名づけたことも知らせた。名は皇帝ウァレンティニアヌスにちなむとみられる。この遠征には同名の息子テオドシウスと、のちに皇帝を名乗るマグヌス・マクシムスが同行していた。マクシムスは親族だった可能性があるという。
ブリタニアから戻ると、ヨウィヌスの後任として宮廷付きの騎兵長官となり、370年か371年にアレマン人の地へ侵攻して成功を収めた。372年にはイリュリクムに派遣されてサルマティア人と戦い、戦闘に勝って遠征を終えたようである。同じ年、マウレタニアの王族フィルムスが反乱を起こしてアフリカ管区を混乱に陥れ、皇帝はテオドシウスに鎮圧を命じた。息子はモエシア・プリマの軍司令官として父の後を継いでイリュリクムを預かり、父はアルルで兵を集めた。373年春にアフリカへ渡り、マウレタニア東部で反乱軍を破ったが、作戦期の終わりに西部へ軍を進めたとき、大きな挫折に見舞われたという。二度の苦しい作戦を経て、374年までに反乱は鎮められた。375年に皇帝ウァレンティニアヌス1世が没したのち、翌376年にテオドシウスは逮捕され、処刑された。新たな西方皇帝である皇帝の子グラティアヌスと共同皇帝ウァレンティニアヌス2世にとって脅威と見なされたためだろうとされている。
同じ年に亡くなった人物
- Photinus of Sirmium (376年没)
- アラヴィヴス (376年没)
- ヴィティミール (376年没)
- エルマナリク (376年没)
同じ地域に関係する人物
- Olivia de Palermo (463年没)
- シャルル・ダンクラ (1907年没)
- キプリアヌス (258年没)
- シャルル・ジュール・アンリ・ニコル (1936年没)
- ベジ・カイドセブシ (2019年没)