伝記
ルーセル・ド・バイユールは、南イタリアや東ローマ帝国で戦ったノルマン人の傭兵である。出自は明らかでなく、ノルマンディーのアルジャンタン近くのバイユール出身とも、同地方東部のボン・ル・コント出身ともいわれる。「フランクの息子」を意味する呼び名でも知られた。東ローマではフランク人と呼ばれたが、この呼称は当時、西欧のさまざまな人々に広く用いられていた。ノルマンディーを追われたのか、自ら地中海へ向かったのかも定かではない。南イタリアへ渡った時期は不明だが、1060年代初めにはシチリアにおり、同島の征服に着手したルッジェーロ1世に仕えていた。1063年にはチェラーミの戦いに参加し、その後オトラント地方に住んだ。
1070年ごろ、フランク人やノルマン人の傭兵を率いてコンスタンティノポリスへ赴き、東ローマ帝国に仕えるようになった。1071年にはロマノス4世ディオゲネスのセルジューク朝に対する遠征に加わった。この遠征はマンジケルトでの敗戦と皇帝の捕縛に終わった。ルーセルはヴァン湖周辺で行動しており、皇帝がその増援に大きな部隊を割いたことも、軍の分散にかかわったとされる。小アジアではフランク人とノルマン人の重装騎兵三千を率いた。その後も帝国への奉仕を続けたが、1073年、イサキオス・コムネノスが指揮する遠征にノルマン人部隊の長として加わると、カッパドキアのカイサリアで軍を離脱した。配下を率いてセバステイアへ進み、周辺を略奪しながらアナトリアに独自の支配地を築こうとした。ガラティア地方を征服し、アンキュラを中心とする公国を宣言したともいわれる。
討伐に来たヨハネス・ドゥーカスと息子アンドロニコスを、サンガリオス川のゾンポス橋で破って捕虜とした。さらに相手のノルマン人傭兵も加えて首都へ向かい、ニコメディアで捕虜のヨハネスを皇帝に擁立した。首都の対岸にあるクリュソポリスを略奪し、火を放ったため、皇帝ミカエル7世は交渉を試みた。皇帝はルーセルの妻子を返し、宮廷の高位を与えると申し出る一方、トルコ人の指導者アルトゥクに攻撃を求めた。ルーセルはニコメディア付近で敗れ、ヨハネスとともに捕らえられた。ヨハネスは皇帝に身代金を払われて修道院へ退いたが、ルーセルの身代金は妻が支払った。釈放後は部下を集め、あらかじめ拠点を設けていたアルメニアコン地方へ逃れた。
ミカエル7世は、若いアレクシオス・コムネノスを新たに派遣した。アレクシオスはアマセイアでアラン人の部隊を加え、待ち伏せを行うとともに、諸都市の門を閉ざさせてルーセルを疲弊させた。さらにルーセルの新たな同盟者となっていたトゥトゥシュを買収し、身柄を引き渡させた。ルーセルは1074年に首都へ連行され、牢に入れられた。獄中では飢え死にしかねなかったが、アレクシオスの介入を受けたという。1077年、反乱鎮圧のために釈放されると、ニケフォロス・ボタネイアテスの軍を破ったものの、その後は反逆して相手に加わった。皇帝は再びセルジューク軍を頼り、ルーセルはニコメディアで敗れて捕縛された。東ローマ側に引き渡されて処刑され、その年は1077年とも1078年ともされる。
同じ年に亡くなった人物
- アノーヤター (1077年没)
- 張載 (1077年没)
- アブル・ファドル・バイハキー (1077年没)
- ゲーザ1世 (ハンガリー王) (1077年没)
- アグネス・フォン・ポワトゥー (1077年没)
同じ地域に関係する人物
- Ariobarzanes II of Cappadocia (紀元前100)
- アリアラテス5世 (紀元前200)
- マルクス (476年没)
- Ariarathes I of Cappadocia (紀元前321)
- Ariobarzanes III of Cappadocia (紀元前41)