伝記
プトレマイオス2世ピラデルポスは、プトレマイオス朝エジプトの二代目のファラオで、紀元前308年に生まれ、紀元前246年に没した。父は王朝の創始者プトレマイオス1世、母は二人目の王妃ベレニケ1世である。ディアドコイ戦争のさなか、父がエーゲ海方面へ進んだころにコス島で生まれたとされ、幼年期の行跡はほとんど伝わらないが、ランプサコスのストラトンらから教育を受けたという。ピラデルポスとは「兄弟姉妹を愛する者」を意味し、同母姉で妻でもあるアルシノエ2世との強い結びつきに由来する。
異母兄のプトレマイオス・ケラウノスが当初は後継者だったが、成人したピラデルポスとのあいだで王位継承の争いが起こり、紀元前287年頃にケラウノスはエジプトを去った。紀元前285年に父が彼をファラオと宣言して共同統治者とし、共同統治は紀元前282年の父の死まで続いた。ある古代文献は彼が父を殺したと主張するが、別の史料は、父がすでに80代半ばだったことから病死の可能性が高いとみている。紀元前281年には、兄弟のうち二人、おそらくケラウノスの親族を処刑したようである。最初の妻はトラキア王リュシマコスの娘アルシノエ1世で、のちのプトレマイオス3世を含む3人の子をもうけた。リュシマコスの王国が崩れてエジプトへ戻った姉のアルシノエ2世は、アルシノエ1世と衝突した。紀元前275年頃、アルシノエ1世は姉が捏造したとされる謀反の疑いで告発され、南エジプトのコプトスへ流され、王はアルシノエ2世と再婚した。この姉弟婚は古代エジプト王室の慣行には合ったが、ギリシア人には衝撃を与えた。姉弟婚をあざけった風刺詩人は殺されたとされ、宮廷詩人テオクリトスはゼウスと姉ヘーラーの関係にたとえて王を擁護した。以後の王家の婚姻の原型にもなった。
対外面では、積極的な外征でエーゲ海の島々を回復し、二度のシリア遠征によって領土を広げ、アフリカやアラビアへの隊商路も確保した。ヌビアには紀元前275年から274年ごろ遠征軍を送り、ドデカスコイノスと呼ばれる地を併合し、ワジ・アラッキの金鉱を手にして、大規模な採掘を計画した。ここで産する金は、紀元前3世紀のプトレマイオス朝の繁栄に重要な役割を果たした。紀元前274年にはセレウコス朝のアンティオコス1世と第1次シリア戦争を戦い、緒戦の成功にもかかわらず押し返されたが、セレウコス朝側の事情で侵攻は起こらず、紀元前271年に和平が結ばれて情勢は戦前に戻った。王朝はこれを大勝と自ら称えた。紀元前270年から269年には古い運河を整備して再開通させ、紅海沿岸にも多くの港を築いた。
エーゲ海方面では、マケドニアのアンティゴノス2世に対抗する立場に立ち、アテナイやスパルタと同盟を結んだ。これがクレモニデス戦争である。紀元前268年末にアテナイが宣戦し、エジプト艦隊も出動したが、作戦は失敗し、アテナイは紀元前261年初めにマケドニアに降伏した。以後のエジプトの介入は、財政と海軍力による支援にとどまったようである。
内政では、宰相のもとでギリシア人を支配層とする官僚的中央集権国家と強い統制経済を築き、国富は王朝の歴史を通じて最大になったとされる。ファイユームをギリシア人軍人の植民地として開発し、アルシノイテス州と称した。父の遺業を継いで学士院と附属図書館に多数の学者や文人を招き、アレクサンドリア文学の黄金時代を築いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アンティオコス2世テオス (紀元前246年没)
同じ地域に関係する人物
- Anianus of Alexandria (85年没)
- Pantaenus (216年没)
- Ibrahim Shams (2001年没)
- プトレマイオス1世 (紀元前282年没)
- マルクス・アントニウス (紀元前30年没)