伝記
ヴラチスラフ2世は、1035年ごろに生まれ、ボヘミア公から初代ボヘミア王となったプシェミスル家の君主である。父はブジェチスラフ1世、母はユーディト・フォン・シュヴァインフルトであった。1055年の父の死後、モラヴィアのオロモウツを治めたが、ボヘミア公となった兄スピチフニェフ2世と争い、ハンガリーへ逃れた。のちにハンガリーの援助で領地へ戻り、兄とも和解した。最初の妻マリアを失った後には、ハンガリー王アンドラーシュ1世の娘アデルハイドと結婚した。1061年に兄が死ぬと、プラハでボヘミア公位を継いだ。同年にアデルハイドも没し、翌年にはポーランド公カジミェシュ1世の娘スヴァタヴァを妻に迎えた。
国内では弟たちとの対立を抱えた。モラヴィアをコンラートとオトに分けて任せる一方、1063年にはオロモウツ司教区を設けた。1068年に弟ヤロミールがプラハ司教になると、新司教区の地位を高め、プラハ司教の力を抑えようとした。ヤロミールにはボヘミアの貴族に支持者が多く、公に対する抵抗が続いた。1070年には宮廷をプラハ城からヴィシェフラトへ移し、同地に参事会の聖堂を創設した。対外的には婚姻によってポーランドとの関係改善を図ったが、1070年と1071年には国境で衝突が起きた。ハインリヒ4世は両国の君主をマイセンへ呼んで和平を強いたものの、対立は収まらなかった。
ヴラチスラフはハインリヒ4世への支持を続け、ザクセンの反乱諸侯や対立王との戦いに兵を送った。1075年のホムベルクの戦いにも参加した。1076年にはマイセンやラウジッツなどの辺境領を任されたとされるが、約束された領土を十分に得たわけではなかった。1077年にはハインリヒがヤロミールを大法官に任じ、兄弟の争いは部分的に収まった。1080年のフラルヒハイムでは対立王ルドルフの金の槍を手に入れ、以後は国家の儀式でその槍を前方に運ばせたという。1081年にはイタリア遠征のために兵を集めた。1082年5月12日、マイルベルクでオーストリア辺境伯レオポルト2世を破ったが、求めた領域の確保には成功しなかった。1083年にはハインリヒとともにローマへ入った。教皇との関係も維持し、ハインリヒが立てた対立教皇に全面的に結びつくことはなかった。ただし、スラヴ語による典礼を用いる望みはグレゴリウス7世に退けられた。
1085年にはマインツの会議でハインリヒから王号を与えられ、1085年とも1086年ともされる6月15日にプラハで戴冠した。戴冠を執り行ったのはトリーア大司教エーギルベルトであった。ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世と数えられる。この王号は本人一代に限られ、世襲の王政を定めるものではなかった。ポーランド王の称号も授けられたが、同国全域を実際に統治したわけではない。晩年はモラヴィアの継承をめぐってコンラートと争い、息子ブジェチスラフにも背かれた。最後にはコンラートを後継者として和解し、ブジェチスラフはハンガリーへ逃れた。1092年1月14日、狩猟中の落馬による傷で死去し、ヴィシェフラトの聖ペテロ・聖パウロ教会に葬られた。王号は引き継がれず、弟コンラートがボヘミア公となった。
同じ年に亡くなった人物
- ニザームルムルク (1092年没)
- マリク・シャー (1092年没)
- フィラレトス・ブラカミオス (1092年没)
- コンラート1世 (1092年没)
同じ地域に関係する人物
- ルドルフ3世 (ザクセン選帝侯) (1419年没)
- ヨセフ・スク (作曲家) (1935年没)
- ルドヴィーク・ヴァツリーク (2015年没)
- カレル・カヒーニャ (2004年没)
- Vaclav Horak (2000年没)