HISTORICAL PERSON · 1092年没

コンラート1世

ブジェチスラフ1世の三男で、兄ヴラチスラフ2世の跡を継ぎ、1092年に8か月間ボヘミア公を務めた。以前は1054年からブルノとズノイモの公として南モラヴィアを治めた。跡は甥ブジェチスラフが継いだ。

生涯
1092年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

コンラート1世は、1035年ないし1036年ごろに生まれ、モラヴィアの諸侯領を長く治めたのち、1092年にボヘミア公となったプシェミスル家の君主である。ボヘミア公ブジェチスラフ1世とユーディト・フォン・シュヴァインフルトの三男で、兄にスピチフニェフ2世とヴラチスラフ2世、弟にオタとヤロミールがいた。母はシュヴァインフルト辺境伯ハインリヒの娘であった。父は最晩年、一族の年長者がボヘミアを継ぎ、弟たちはモラヴィアの領地を治める形を整えた。コンラートは1054年ごろからモラヴィア南部に所領を得たとされる。同年、バイエルン貴族の女性ヴィルピルク・フォン・テングリングと結婚した。

1055年に父が死んでスピチフニェフ2世がボヘミア公になると、コンラートはブルノを拠点とした。しかし、モラヴィア貴族がコンラートの統治に反発し、兄は同地へ軍を進めた。コンラートとオタはプラハの宮廷に呼び戻され、コンラートは狩猟長官に任じられた。モラヴィアの諸侯領はいったん廃止されたが、1061年にスピチフニェフが急死すると、後を継いだヴラチスラフ2世によって弟たちへ返された。以後、コンラートは地元の貴族と協調してブルノやズノイモの領地を治めた。1063年にはオロモウツ司教区の創設にも積極的に関与した。

プラハ司教シェビーシュの死後、コンラートとオタは、父の遺志に従って弟ヤロミールを司教にするよう求めた。ヴラチスラフは弟たちの勢力が強まるのを恐れ、別の候補を立てたが、反乱の危険を前に譲歩し、1068年にヤロミールが司教となった。コンラートはその後も兄の政策に対抗し、ポディヴィーン城をオロモウツ司教区から奪ってプラハ司教区へ返した。オロモウツ司教ヤンに対する態度も対立を招き、1075年には教皇グレゴリウス7世が介入して、両司教の和解を図った。一方、対外戦争では兄と行動をともにし、1082年5月12日、ヴラチスラフ、オタとともにマイルベルクでオーストリア辺境伯レオポルト2世の軍を破った。

1086年または1087年にオタが死ぬと、未亡人エウフェーミアはコンラートの庇護を受けた。コンラートの勢力がモラヴィア全体に広がると、対立勢力を率いるズデラートはヴラチスラフに出兵を促した。王はオロモウツを征服して息子ボレスラフに与え、さらにブルノを包囲した。しかし別の息子ブジェチスラフが父に背き、小競り合いでズデラートが死ぬと、王は苦しい立場に置かれた。最終的にはコンラートと和解して後継者に指名し、ブジェチスラフは国外へ逃れた。

1092年1月14日にヴラチスラフが死ぬと、コンラートは同月20日にボヘミア公位を継いだ。兄の王号は一代限りであり、王としての継承は認められなかった。短い治世には、プラハとオロモウツの司教区統合を求めて皇帝へ使者を送った。一方で双方の司教の地位も認め、復活祭は両司教とヴィシェフラトで祝った。同年9月6日に死去し、甥ブジェチスラフが公位を継いだ。妻との間にはオルドジフとリトルトの2男がおり、前者はブルノ、後者はズノイモの諸侯となった。父ブジェチスラフ1世の息子たちによるボヘミア統治は、コンラートの死で終わった。

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