伝記
マリク・シャーは、セルジューク朝の第3代スルタン(在位1072年から1092年)で、この王朝が最盛期を迎えた時代の君主である。第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子として、1055年に生まれた。日本語版は8月8日、英語版は8月16日とし、日付が異なる。マリクはアラビア語、シャーはペルシア語で、どちらも「王」を意味する。英語版は、色白で背が高く、やや大柄だったとも記す。若い頃はエスファハーンで過ごし、父の遠征にニザームルムルクとともに加わった。1064年、9歳の彼はカフカース遠征に同行し、同じ年に、カラハン朝のハーン、イブラーヒームの娘テルケン・ハトゥンと結婚した。1066年には、父がメルヴ近郊で式を開いて後継者に指名し、エスファハーンを封土として与えた。1071年のシリア遠征にも加わり、父が東ローマ皇帝とマラーズギルトで戦ったときは、アレッポにとどまっていた。
1072年、父がマー・ワラー・アンナフル遠征の途中で重傷を負って急死し、長男の彼が17歳で即位した。これにはアタベクで宰相でもあったニザームルムルクの画策が大きかったとされる。伯父のカーヴルド・ベグが、スルタン位を求めて反乱を起こした。英語版によれば、伯父が「私は長兄で、お前は若い息子だ。弟の遺産に対して、私の方が権利が大きい」と書き送ったのに対し、彼は「息子がいれば兄弟は相続しない」と返し、伯父はエスファハーンを占領した。1073年、ハマダーン近郊で3日にわたる戦いがあり、彼の軍のテュルク人が反乱を起こしたが、最終的に勝利して、カーヴルドを捕らえた。カーヴルドは助命を乞い、オマーンへ隠退すると申し出たものの、ニザームが弱さのしるしだとして退け、伯父は弓弦で絞め殺され、息子二人は目をつぶされたと英語版は伝える。日本語版は、その息子たちがケルマーンで強い勢力を保っていたため、討伐は難しく、スルタンの称号を奪うかわりにアミールの位を与え、カーヴルド家によるケルマーン支配を事実上黙認したと記す。1074年には、ニーシャープールを領していた弟のテキシュも反乱を起こし、治世の初めは親族間の紛争に悩まされた。
彼は王都をエスファハーンに定めた。東南部のカーヴルド王家と西南部のアッバース朝に目を光らせるためで、カスピ海南岸、ホラーサーン、マー・ワラー・アンナフル、西方のルームやシリアへの連絡にも便利であり、領土拡張にも地の利を得た。1073年にはカラハン朝を撃退し、テルメズを占領した。またガズナ朝の君主と和睦し、娘を君主の子に嫁がせた。アナトリアには、クタルムシュの長男スライマーンを派遣して調停させ、これが後のルーム・セルジューク朝の基礎となった。シリアには弟トゥトゥシュを、ホラーサーンには息子のアフマド・サンジャルをそれぞれ領有させた。
統治では、ニザームの補佐のもと、中央集権的な官僚制を確立し、東はアフガニスタンから西は東ローマ帝国に及ぶ広大な支配圏を築いた。天文台を建設し、ウマル・ハイヤームに新暦を編纂させるなど、文化面でも優れていた。英語版は、彼が名目上の国家の首長であり、実権はニザームがほぼ完全に握っていたと述べる。宗教政策では、スンナ派を重用してイスマーイール派を弾圧したが、失敗し、これが王朝衰退の一因になったとされる。1092年、宰相ニザームが妃に暗殺されると、彼はその死を悲しんだ。同年、無理を押して出陣し、バグダード滞在中に陣中で病に倒れ、ニザームの後を追うように、37歳で急死した。治世は20年であった。名君として高く評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート1世 (1092年没)
- ニザームルムルク (1092年没)
- ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王) (1092年没)
- フィラレトス・ブラカミオス (1092年没)
同じ地域に関係する人物
- Abd al-Muhsin as-Sa'dun (1929年没)
- ムスタンジド (1170年没)
- シメオン・バル・サバエ (341年没)
- ムハンマド・バーキル・サドル (1980年没)
- ハティーブ・バグダーディー (1071年没)