伝記
ニザームルムルクは、セルジューク朝の宰相、学者である。1018年4月10日に、ホラーサーン地方の都市トゥース近くの町で、地主の家に生まれ、本名はハサン・ブン・アリー・トゥースィーという。英語版はラドカーンという小さな村とする。ニザームルムルクとは「王国の秩序」の意味で、君主から与えられた称号である。英語版が伝える逸話では、生後2日目に母が夢で預言者の娘ファーティマを見て、父の名がアリーなのだから、わが子ハサンにならって名づけよと告げられたといい、母は翌朝その名を付けたという。
父アリー・ブン・イスハークはガズナ朝の財務官で、1040年にダンダーナカーンの戦いでセルジューク朝がガズナ朝を破ってホラーサーンを征すると、ガズナへ逃れた。ハサンも父に従い、そこで初めて官職に就いたが、三、四年で宮廷を去り、1043年頃にセルジューク朝に仕えた。1059年までには、ホラーサーン全域の長官となった。第2代スルタンのアルプ・アルスラーンが即位すると宰相に任じられ、以後、アルプ・アルスラーン(在位1063年から1072年)と第3代のマリク・シャー1世(在位1072年から1092年)の治世を通じてその地位にあった。日本語版は、傅役(アタベク)としても両者を補佐したと記す。
政治手腕にすぐれ、行政組織、軍隊、イクター制を整え、宗教政策と教育政策にも尽力した。アルプ・アルスラーンが軍事に強かったのに対し、内政は彼が担い、王朝を強めた行政組織を築いた。軍事イクター(封土)は、遊牧のテュルク人を農耕社会に適応させ、征服の貢納に頼らず大きな常備軍を養うことを可能にしたと英語版は述べる。1064年のアルメニア遠征に加わり、アニを占領した。1067年にはシャバーンカーラの首長からイスタフルの城塞を奪っている。1071年の東ローマ帝国とのマラーズギルトの戦いについては、日本語版が参加したとするのに対し、英語版は、資材を運ぶためペルシアへ送られ、参戦しなかったとする。
1072年、マリク・シャーが17歳で即位すると、実権は彼が握った。英語版は、その後20年間、事実上の支配者であったと述べる。1074年に王都をエスファハーンに定め、同年に天文台が建てられ、ウマル・ハイヤームがジャラーリー暦を作った。1086年から1087年にかけて、二人によってエスファハーンの金曜モスクの南ドームが建てられた。両者の体制がうまく機能し、王朝は整備された帝国となり、1092年頃には最大の版図に達した。
教育面では、1067年に彼の名にちなんでバグダードにニザーミーヤ学院を設立した。各地に創設された学院は、マドラサという学問施設をイスラーム社会に定着させるきっかけとなった。当初はシャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学が講じられ、イスマーイール派の宣教師に対抗し、スンナ派の信仰の復権を図ったものと考えられている。教壇に立った代表的人物がガザーリーである。また、『政治の書』を著したと伝えられる。
1092年、マリクの妃に些細なことから恨みを買い、暗殺された。後継者に彼は長男バルキヤールクを推し、妃は実子マフムードを推していた。宮廷内の対立が深まる中、彼を敵視していた大臣タージュルムルクが妃の側についた。一説には、スンナ派の権威回復に努めシーア派を弾圧したことへの報復として、ニザール派によるともいわれる。没日は、日本語版の本項が10月14日、マリク・シャーの項が10月20日とし、食い違う。マリク・シャーもその一か月足らずのうちに病没した。
同じ年に亡くなった人物
- マリク・シャー (1092年没)
- フィラレトス・ブラカミオス (1092年没)
- ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王) (1092年没)
- コンラート1世 (1092年没)
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