HISTORICAL PERSON · 1093年没

Bertrand II of Provence

別名ギヨーム6世。プロヴァンス伯ジョフロワ1世の子で、父の死後に伯位を継いだ。妻マティルダとの間に娘セシリアが生まれ、カルカソンヌ副伯ベルナール・アト4世に嫁いだ。1093年に没した。

生涯
1093年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ベルトラン2世は、11世紀後半のプロヴァンスとアルルを治めた伯で、ギヨーム6世とも呼ばれる。父はプロヴァンス伯ジョフロワ1世、母はステファニー・ドゥースであった。母の出自は明らかでないが、マルセイユ副伯家につながるとの説がある。1055年にすでにその名が現れ、1057年には両親がマルセイユのサン・ヴィクトル修道院へ行った寄進に加わっていた。父の後を継いだ当初は未成年で、母の後見下に置かれたとされる。プロヴァンスの伯位は一族の間で分有されており、近親者にもギヨームやベルトランという名が重なっていた。

1063年ごろ、出自の分からないマティルダと結婚し、娘セシリアをもうけた。同年には伯の居所をアルルからタラスコンへ移した。支配力は弱く、1065年にはアルルの有力家にサン・ヴィクトル修道院の財産を守るよう求めている。伯による司法の執行にも困難があり、1067年にはモンマジュール修道院の書記が、正しい裁きを行う公も辺境伯もいないと嘆いた。伯の権限だけでは、地域の秩序や修道院の所領を十分に守れない状態にあった。

1070年代末には、アルル大司教エカールと対立した。争点の一つはモンマジュール修道院長ベルモンの任命であり、大司教がサン・ジル伯へ接近したことも対立を深めたとされる。大司教はマルセイユ副伯家の出身で、伯はその一族の勢力も恐れていた。1078年、ベルトランは聖職売買の嫌疑を大司教にかけ、教皇の支援を求めた。しかし大司教は市民、聖職者、ボー家、ポルスレ家などの支持を受けていた。1079年からはマルセイユ副伯家も伯の周辺を離れ、1081年にはベルトランが教皇への臣従を選んで、神聖ローマ皇帝に対する主従関係を否定した。

1083年、ベルトランは副伯夫人エルマンガルドと交渉し、娘セシリアをその息子ベルナール・アトン4世に嫁がせた。婿はベジエやカルカソンヌなど、複数の副伯領を継承する立場にあった。娘には持参金を与えた一方、父の領地に対する相続権からは外した。1090年のウルジェイ伯の遺言ではアルル伯として言及され、子供たちの後見人の一人に選ばれた。晩年と正確な没年は明らかでないが、1093年に死去したとされる。分有していたプロヴァンス伯領は、姉妹ジェルベルジュとその夫のジェヴォーダン伯へ移ったと考えられている。

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