伝記
マフムード一世は、セルジューク朝の君主マリク・シャーとテルケン・ハトゥンの息子で、幼少のままスルターンに擁立された。ナースィルッディーンの称号でも知られる。生年には一〇八六年と一〇八八年の説がある。母はマリク・シャーの有力な妃で、先に生まれたダウードやアフマドは後継者とされたが、いずれも早くに亡くなった。母の側では幼いマフムードに継承を託すこととなった一方、宰相ニザームルムルクは、別の妃ズバイダの息子で年長のバルキヤールクを支持した。姉妹のマーヒー・ムルクは、アッバース朝カリフのムクタディーに嫁いでいた。
一〇九二年、ニザームルムルクに続いて父マリク・シャーも死去すると、後継者争いが表面化した。タージュルムルクはマフムードを推し、母テルケンは息子の名で権力を握ろうとして、カリフと交渉した。カリフは幼児や女性を支配者とすることに難色を示し、女性の名で主権を示す金曜礼拝の説教を行うことは認めなかった。結局、説教では息子の名を唱え、カリフが任命した宰相の補佐を受けるという条件で、母が政務を行うことを認めた。マフムードはバグダードでスルターンとされ、宰相シーラーズィーと軍司令官ウナルのもと、実際の権力は母が握った。テルケンは正式な摂政ではなかったが、事実上の統治を行った。
一方、バルキヤールクもスルターンを称し、二人の君主が並立した。テルケンの側はその身柄を拘束できず、ニザームルムルクの息子たちはバルキヤールクを支持した。一〇九三年、ハマダーン近くのボルージェルドで両軍が戦い、マフムード側は敗れた。母子はイスファハーンへ退き、首都も争奪と包囲の場となった。マフムードは父と祖父アルプ・アルスラーンが築いた国家全体を支配するには至らなかった。アナトリアではイスファハーンから脱出したクルチ・アルスラーン一世が、シリアでは叔父トゥトゥシュが自立し、アレッポやディヤルバクルの支配者も独立を宣言した。
マフムードは一〇九四年の秋に死去した。十一月に天然痘で亡くなったとも、母とともにニザームルムルクの一族に殺害されたともいわれ、十月に母子が原因不明のまま死去したとする説もある。短い在位ののち、兄バルキヤールクが後を継いだ。後継者たちの争いで生じたセルジューク勢力の分裂は続き、一〇九六年に始まる第一回十字軍が予想外の成功を収める要因となった。
同じ年に亡くなった人物
- バドル・アル=ジャマーリ (1094年没)
- アク・サンクール・アル=ハジブ (1094年没)
- アルムクタディー・ビ・アムリ・アッラーフ (1094年没)
- ダンカン2世 (スコットランド王) (1094年没)
- サンチョ1世 (アラゴン王) (1094年没)
同じ地域に関係する人物
- ファフルッディーン・アサド・グルガーニー (1054年没)
- ミールエマード・ハサニー (1615年没)
- Borzuya (600年没)
- ホスロー4世 (636年没)
- ファトフ・アリー・シャー (1834年没)