HISTORICAL PERSON · 1095年没

レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)

オーストリア辺境伯(在位1075〜95年)。美伯と呼ばれ、グレゴリウス改革の支持者で、叙任権闘争ではハインリヒ4世と対立した。パッサウ司教アルトマンの影響で寝返り、メルク修道院の建設費を援助した。

生涯
1095年没
死亡地
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州 / ガルス・アム・カンプ)
出生地
—
出典
世界地図
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州)

伝記

レオポルト2世は、1050年に生まれ、1075年から1095年までオーストリア辺境伯を務めたバーベンベルク家の君主である。「美伯」とも呼ばれた。父は辺境伯エルンスト、母はラウジッツ辺境伯デド1世の娘アーデルハイトで、その長男であった。一族は曽祖父レオポルト1世が976年に任命されて以来、オーストリア辺境伯位を保っていた。1065年にイダと結婚し、夫妻の間には1男6女が生まれたとされる。イダの出自には異説があるが、バイエルンのシャム伯家につながる女性だった可能性がある。1075年6月、ハインリヒ4世に従ってザクセンの反乱と戦った父が死ぬと、辺境伯位を継いだ。

当時は、ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との間で叙任権をめぐる争いが始まっていた。レオポルトは当初、父と同じく王を支持し、忠誠の報いとして多くの寄進を受けた。1077年1月に王がカノッサで教皇に赦しを求めた後も、王の宮廷にとどまっていた。しかし妻イダとパッサウ司教アルトマンの影響で、教皇を支持する方向へ動いた。アルトマンの教区はオーストリアにも及び、司教はグレゴリウス改革の熱心な担い手であった。1078年に王の圧力でパッサウを追われると、オーストリアへ逃れた。翌1079年には王軍が辺境伯領へ侵入し、レオポルトはいったん王権に従うことを余儀なくされた。

1081年夏、王がイタリアへ出兵している間に、レオポルトはトゥルンの宮殿へオーストリアの有力者を集めた。ここでハインリヒとの決別を公にし、教皇とその使節アルトマンへの支持を示した。新たな対立王ヘルマン・フォン・ザルムの選出も支援した。ハインリヒは直ちに辺境伯の廃位を宣言し、その領地を忠臣のボヘミア公ヴラチスラフ2世へ与えた。ヴラチスラフはオーストリアへ侵攻し、1082年のマイルベルクの戦いでレオポルトを破った。辺境伯はかろうじて逃れ、北部の土地は敵軍に荒らされた。ターヤ川の北にあった領地の一部も失い、南モラヴィアへ組み込まれたが、辺境伯としての地位そのものは保持した。

アルトマンの滞在中、レオポルトは領内の教会改革を支え、教会を私有財産のように扱う制度や、司祭の結婚を改める動きに関わった。司教はクレムスミュンスター修道院へクリュニー系の規則を取り入れ、1083年にはクレムス近郊に修道院を創設した。1084年にハインリヒが対立教皇によって皇帝に戴冠されると、レオポルトはそれ以上の攻撃を控えた。ヴラチスラフはオーストリアを手に入れることができず、翌年にボヘミア王となった。1089年にはレオポルトがドナウ川沿いの土地を修道院のために寄進し、メルク修道院の創建を助けた。この寄進はベネディクト会へのものであった。居所もメルクから、ボヘミアとの国境に近いガルス・アム・カンプへ移した。

1095年10月12日に死去し、息子レオポルト3世が辺境伯位を継いだ。娘たちは近隣の有力諸家と結ばれ、エリーザベトはシュタイアーマルク辺境伯オットカール2世、ゲルベルガはボヘミア公ボジヴォイ2世、イダはズノイモ公リトルトの妻となった。妻イダは夫の死後、1101年の十字軍中に没したといわれる。

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