伝記
レオポルト2世は、1050年に生まれ、1075年から1095年までオーストリア辺境伯を務めたバーベンベルク家の君主である。「美伯」とも呼ばれた。父は辺境伯エルンスト、母はラウジッツ辺境伯デド1世の娘アーデルハイトで、その長男であった。一族は曽祖父レオポルト1世が976年に任命されて以来、オーストリア辺境伯位を保っていた。1065年にイダと結婚し、夫妻の間には1男6女が生まれたとされる。イダの出自には異説があるが、バイエルンのシャム伯家につながる女性だった可能性がある。1075年6月、ハインリヒ4世に従ってザクセンの反乱と戦った父が死ぬと、辺境伯位を継いだ。
当時は、ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との間で叙任権をめぐる争いが始まっていた。レオポルトは当初、父と同じく王を支持し、忠誠の報いとして多くの寄進を受けた。1077年1月に王がカノッサで教皇に赦しを求めた後も、王の宮廷にとどまっていた。しかし妻イダとパッサウ司教アルトマンの影響で、教皇を支持する方向へ動いた。アルトマンの教区はオーストリアにも及び、司教はグレゴリウス改革の熱心な担い手であった。1078年に王の圧力でパッサウを追われると、オーストリアへ逃れた。翌1079年には王軍が辺境伯領へ侵入し、レオポルトはいったん王権に従うことを余儀なくされた。
1081年夏、王がイタリアへ出兵している間に、レオポルトはトゥルンの宮殿へオーストリアの有力者を集めた。ここでハインリヒとの決別を公にし、教皇とその使節アルトマンへの支持を示した。新たな対立王ヘルマン・フォン・ザルムの選出も支援した。ハインリヒは直ちに辺境伯の廃位を宣言し、その領地を忠臣のボヘミア公ヴラチスラフ2世へ与えた。ヴラチスラフはオーストリアへ侵攻し、1082年のマイルベルクの戦いでレオポルトを破った。辺境伯はかろうじて逃れ、北部の土地は敵軍に荒らされた。ターヤ川の北にあった領地の一部も失い、南モラヴィアへ組み込まれたが、辺境伯としての地位そのものは保持した。
アルトマンの滞在中、レオポルトは領内の教会改革を支え、教会を私有財産のように扱う制度や、司祭の結婚を改める動きに関わった。司教はクレムスミュンスター修道院へクリュニー系の規則を取り入れ、1083年にはクレムス近郊に修道院を創設した。1084年にハインリヒが対立教皇によって皇帝に戴冠されると、レオポルトはそれ以上の攻撃を控えた。ヴラチスラフはオーストリアを手に入れることができず、翌年にボヘミア王となった。1089年にはレオポルトがドナウ川沿いの土地を修道院のために寄進し、メルク修道院の創建を助けた。この寄進はベネディクト会へのものであった。居所もメルクから、ボヘミアとの国境に近いガルス・アム・カンプへ移した。
1095年10月12日に死去し、息子レオポルト3世が辺境伯位を継いだ。娘たちは近隣の有力諸家と結ばれ、エリーザベトはシュタイアーマルク辺境伯オットカール2世、ゲルベルガはボヘミア公ボジヴォイ2世、イダはズノイモ公リトルトの妻となった。妻イダは夫の死後、1101年の十字軍中に没したといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- アル=ムータミド・イブン・アッバード (1095年没)
- ヴルフスタン (1095年没)
- コンスタンティノス・ドゥーカス (1095年没)
- ラースロー1世 (ハンガリー王) (1095年没)
- 沈括 (1095年没)
同じ地域に関係する人物
- レガリアヌス (260年没)
- マリー・フォン・ヴェッツェラ (1889年没)
- アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ (1881年没)
- ルドルフ・ヨハネス・フォン・エスターライヒ (1831年没)
- ルドルフ (オーストリア皇太子) (1889年没)