伝記
レガリアヌスは、3世紀の危機のさなかの260年か261年に、数か月のあいだ皇帝を名乗ったローマの簒奪者である。正式にはP・C・レガリアヌスと呼ばれ、ドナウ川沿いの軍隊に皇帝として推戴された。蛮族の襲撃が絶えない地域であり、国境を守ってくれることが期待されたのだろうとされる。
生涯についての記録はごくわずかである。『ローマ皇帝群像』は、ダキア人の出身でダキア王デケバルスの子孫だと述べるが、近代の研究ではほとんど退けられている。妻スルピキア・ドリュアンティッラが名門の元老院議員の家の出であることから、レガリアヌス自身も高位のローマ人だった可能性が高い。フルネームは貨幣にしか現れず、エウトロピウスは「トレベッリアヌス」、アウレリウス・ウィクトルは「レギッリアヌス」などと誤って記した。『皇帝群像』は、ウァレリアヌス帝に取り立てられたイリュリクムの軍司令官だとし、モエシアで軍に推戴されたとも記すが、当時その職は存在せず、信頼できない。妻の身分からみて、上パンノニアなどの属州総督だった可能性のほうが高いとされる。
直前の260年には、同じ地域でインゲヌウスが皇帝に推戴され、ガッリエヌス帝に速やかに敗れていた。両者の反乱のあいだにどれだけ間があったか、レガリアヌスが先の反乱に関わっていたかは分からないが、多くの研究者は間が空いたとみる。そのため即位は260年末か261年、死も260年か261年のどちらかとなる。
インゲヌウスを破ったガッリエヌスは、ドナウ沿いの防衛を立て直したのち、アレマンニ人の侵入に対処するためイタリアへ戻った。レガリアヌスは自らの本拠カルヌントゥムに造幣所を設け、自身と妻の貨幣を鋳造した。皇帝の地位を求める者として異例のことだが、品質は概して粗悪であった。彼がイリュリアで蛮族と戦っていたことは、ガッリエヌスがイタリアの防衛に専念するうえで好都合だったとされる。
数か月の支配ののち、レガリアヌスは殺された。最期の経緯は明確でないが、最も受け入れられているのは、サルマタイ系のロクソラニ人がカルヌントゥムを襲った際に死んだという説で、彼に反感を抱くようになった部下の一部が手引きした可能性もあるという。
同じ年に亡くなった人物
- ミヌキウス・フェリクス (260年没)
- 献穆曹皇后 (260年没)
- 曹髦 (260年没)
- インゲヌウス (260年没)
- 孫亮 (260年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト (1886年没)
- アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ (1881年没)
- ヨハン・ゲオルク・ヒードラー (1857年没)
- ヨハン・レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ (1972年没)
- フランツ・ドップラー (1883年没)