HISTORICAL PERSON · 1096年没

エウドキア・マクレンボリティサ

コンスタンティノス10世の皇后で、夫の死後に女帝(または摂政)として即位した。1068年にロマノス・ディオゲネスと再婚して皇帝ロマノス4世とし、その敗北後は息子ミカエル7世を即位させた。

生涯
1096年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エウドキア・マクレンボリティサは、東ローマ帝国の首都の貴族ヨハネス・マクレンボリテスの娘で、総主教ミカエル・ケルラリオスの姪にあたる。生年は1021年とも1030年ごろともされ、確定していない。1050年以前にコンスタンティノス・ドゥーカスと結婚した。夫婦の間にはミカエル、アンドロニコス、コンスタンティオスらの子が生まれた。1059年、夫がコンスタンティノス10世として即位すると、エウドキアも皇后となった。夫の銀貨や銅貨には、共同皇帝である息子たちを伴わず夫妻だけが描かれたものがあり、銀貨では二人がともにローマ人の皇帝と呼ばれている。その銀貨では彼女が見る者の右側に置かれたが、これは伝統的に共同皇帝や帝位継承者が占める位置であった。メセンブリアの城壁修復を記す銘文にも夫妻の名が並ぶ。宮廷と親しかったミカエル・プセルロスは、エウドキアを高貴で美しく、知性のある女性と評し、彼女からはおじのように遇されていた。

1066年10月に夫が病に倒れると、カエサルのヨハネス・ドゥーカスと総主教ヨハネス8世が共同摂政に指名された。翌1067年5月に夫が死去した後、エウドキアは息子たちとともに政権を継いだ。ミカエルはすでに幼少ではなかったが、政務を母に委ね、エウドキアが行政を自ら掌握した。この時期の地位は摂政とも女帝ともされる。建物の間隔を定める勅令は彼女の名だけで発布され、貨幣では二人の息子の間に彼女が置かれた。夫の臨終に再婚しないと誓っていたものの、東方からの侵攻に単独で対処することは難しかった。帝位を狙うと疑って投獄・追放したことのある将軍ロマノス・ディオゲネスを、新たな夫に選ぶことになった。

エウドキアは総主教に働きかけ、再婚しないという宣誓を解き、帝国のために結婚を認めるよう説得した。当初ヨハネス・ドゥーカスや息子ミカエルの同意を得ないまま進めた再婚は、最終的に承認された。1068年1月1日に婚姻が行われ、ロマノスはロマノス4世として共同皇帝となった。この結婚でニケフォロスとレオの二男をもうけた。また先夫との子アンドロニコスも、ロマノスによって共同皇帝とされた。しかしロマノスは次第にエウドキアを権力から遠ざけ、夫妻の関係は良好とはいえなかった。1071年、マラズギルトの戦いでロマノスがセルジューク軍に敗れて捕虜となると、エウドキアはミカエルとともに再び政権を握った。やがてロマノスの生存と帰還が問題になる中、ヨハネス・ドゥーカスとヴァリャーグ近衛隊から息子に権力を譲るよう迫られ、修道院へ退いた。

1078年、ミカエル7世を廃位したニケフォロス3世は、エウドキアと結婚するため彼女を呼び戻した。しかしヨハネス・ドゥーカスの反対で、この婚姻は実現しなかった。その後は修道女として暮らし、1081年のアレクシオス1世即位より後に死去した。没年を1096年とする説もある。後世には古代の神々や英雄の系譜、変身譚、寓話、哲学者の論評を集めた『イオニア』が彼女の著作とされ、ロマノスから彼女に宛てた序文も付された。しかしこの作品は16世紀に編まれたものと考えられ、1540年ごろのコンスタンティノス・パレオカッパスによる偽作とされている。

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