伝記
ヴェルナー1世は、クレットガウ伯として活動したドイツの貴族で、ハプスブルク家の初期の一員である。敬虔伯という呼び名でも知られている。生年は1030年とも1010年ともいわれ、父はラートボト、母はイーダであった。母方の祖父はザールガウとメッツの伯アダルベルト2世、祖母はシュヴァーベン公コーンラート1世の娘ユーディトとされる。父が築いたハプスブルク城を含め、上アルザスや現在のスイスにあたる地域に所領を持ち、母からもアルザスの土地を受け継いだ。ストラスブール司教ヴェルナーは伯父にあたる。1045年に父が死去すると、ヴェルナーと兄弟のオットー、アルブレヒトが家の領地を分けたとされる。兄弟について残る事績は少なく、アルブレヒトは早くに没し、オットーも1055年ごろまでに殺されたという。ヴェルナーの長い治世には、現在のスイス北部における一族の勢力が固められていった。
1057年、ヴェルナーはレギンリンデ・フォン・ネレンブルクと結婚した。妻はバーデンのレグリンダとも呼ばれ、レンツブルク家につながる女性であった。婚姻によって縁を結んだ同家は、アールガウに豊かな領地を持ち、ゼッキンゲン修道院の保護者でもあった。その影響はライン川右岸のアルプガウにも及んでいた。二人の息子としてオットー2世とアルブレヒト2世が知られている。ヴェルナー自身の所領も、アールガウの城を中心とする地域に広がっていた。ただし、ハプスブルク伯という称号を本人が用いたかどうかは一定せず、息子オットー2世を、一族で初めてこの称号を自称した人物とする説もある。
叙任権闘争では、皇帝ハインリヒ4世に対し、教皇グレゴリウス7世とシュヴァーベン公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを支持した。とりわけ1076年から1080年にかけて、その側に立って活動したとされる。ルドルフは1077年から1080年まで対立王となった人物である。ヴェルナーはルドルフの姻族であったとも考えられるが、両家の具体的な血縁関係は明瞭ではない。ルドルフの企ては失敗に終わったものの、ヴェルナーは帝国内での影響力を増したという。また、教皇に対抗してクレメンス3世を立てる動きにも反対した。政治的な対立への関与と並んで、家が関わる修道院の統治や保護にも携わっている。
1082年ごろには、先祖が創建したムーリ修道院をめぐる権限が組み替えられた。修道院そのものを直接支配する立場を離れる一方、その土地に関わる司法上の権限を持つ保護職を担ったとされる。また、同じ年に伯領をオットー2世とアルブレヒト2世へ分け、自らはムーリの運営にあたったともいわれる。修道生活の改革にはザンクト・ブラジエンの修道士が関わり、古い慣習の改めが行われた。ヴェルナーはザンクト・ブラジエンでも、隠修士たちを修道士の共同体へと組織する活動に関与した。ムーリで家が得た保護職は、後継者たちの勢力にもつながることとなった。1096年に死去し、ムーリに葬られた。家の所領は息子たちに継承され、オットー2世がその後の統治を担った。後のドイツ王ルドルフ1世も、このヴェルナーから続く家系に属している。
同じ年に亡くなった人物
- Sarakhsi (1096年没)
- エウドキア・マクレンボリティサ (1096年没)
- ヴィターレ・ファリエル (1096年(推定))
- ジョフロワ3世 (アンジュー伯) (1096年没)
- ゴーティエ・サンザヴォワール (1096年没)
同じ地域に関係する人物
- アリウス (336年没)
- ザロ・アガ (1934年没)
- リュステム・パシャ (1561年没)
- エウトロピウス (399年没)
- ハーフィズ・オスマン (1698年没)