伝記
ゴーティエ・サンザヴォワールは、隠者ピエールとともに民衆十字軍を率いたフランスの騎士である。出自には不明な点が多く、ポワシー領主ゴーティエの甥で、ユーグ・サンザヴォワールの子であったともされる。領地を得る見込みのない貧しい騎士と伝えられ、隠者ピエールの宗教的情熱に動かされて遠征に加わった。1095年に教皇ウルバヌス2世がクレルモンで十字軍を呼びかけると、人々は武器や旅費のために財産を売却し、あるいは抵当に入れて聖地を目指した。ゴーティエも諸侯が軍を整えるのを待たずに出発する道を選び、武器を使える巡礼者を集めた。およそ1万から1万2000人の集団を組織し、エタンプのテュルパンらを指揮官として規律を保たせ、略奪を禁じた。
1096年4月12日、ゴーティエとピエールの率いるフランス人の一行はケルンに着いた。ピエールがドイツの貴族に説教するため滞在すると、すぐに進みたい者たちはゴーティエに従った。4月15日、8人の騎士を伴って町を離れ、ドナウ川沿いに進んだ。5月21日にハンガリー王国の国境へ達し、その領内では衝突を起こさず進んだが、東ローマ帝国との境にあるベオグラードで足を止められた。総督は十字軍を迎える指示を受けておらず、皇帝の命令が届くまで入市を認めなかったのである。十字軍と守備兵の間には衝突が起きた。さらに部下16人がハンガリーのセムリンの市場で盗みを働いて捕まり、鎧を奪われ、6月11日ごろに絞首刑となった。ようやく進行を許された一行はニシュで補給を受け、護衛に伴われて7月20日にコンスタンティノープルへ到着した。
皇帝アレクシオス1世は、諸侯の遠征軍を待つよう助言した。8月1日にはピエールの集団も合流したが、不規律な参加者が首都の郊外で略奪を始めた。皇帝は8月7日にボスポラス海峡を渡らせ、アジア側のキボトスに陣営を与えた。セルジューク勢力の支配するニカイアから約30キロメートルの場所であった。ここでも一行は待機せず、周囲の農村を襲った。ゴーティエとピエールの制止は聞き入れられず、指導者の権威は弱まった。ピエールは皇帝の助言を求めて首都へ通うようになり、ゴーティエは陣営に残った。一方、イタリア人とドイツ人の一部はルノーを指導者に選び、ニカイア方面へ進んでクセリゴルドンの城を占領した。
ルーム・セルジューク朝のスルタン、キリジ・アルスラーン1世は城を奪い返した。守備側のうちイスラム教への改宗を受け入れた者は奴隷とされ、拒んだ者は殺された。続いてスルタンはキボトスへ密偵を送り、ルノーがニカイアを占領したのに戦利品を分けようとしない、という噂を広めさせた。これを受けて約2万5000人の十字軍がニカイアを目指して陣営を出た。ゴーティエやテックのゴーティエら、500人の騎士がその軍勢を率いた。しかし進んだ距離はわずか3キロメートルで、待ち伏せしていたセルジューク軍の襲撃を受けた。ゴーティエは鎧に7本の矢を受けて戦死した。1096年のことである。この敗北で2万人が殺され、生存者の多くも奴隷にされたという。キボトスへ戻れたのは3000人ほどで、彼らもコンスタンティノープルへ逃れることになった。
同じ年に亡くなった人物
- Sarakhsi (1096年没)
- ハインリヒ3世 (ルクセンブルク伯) (1096年没)
- ヴェルナー1世 (1096年没)
- エウドキア・マクレンボリティサ (1096年没)
- ジョフロワ3世 (アンジュー伯) (1096年没)
同じ地域に関係する人物
- バヤズィト2世 (1512年没)
- ヌーレッディン・パシャ (1932年没)
- ヨハネス・ゾナラス (1145年没)
- Helena (1025年没)
- Jale Inan (2001年没)