HISTORICAL PERSON · 紀元前208年没

マルクス・クラウディウス・マルケッルス

第二次ポエニ戦争でハンニバルに果敢に戦いを挑み「ローマの剣」と称された。紀元前222年の執政官としてガリア人の指揮官を討ち、シラクサを攻略したが、紀元前208年に偵察中の伏兵で戦死した。

生涯
紀元前208年没
死亡地
イタリア共和国(ポテンツァ県 / ヴェノーザ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ポテンツァ県)

伝記

マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、紀元前268年ごろから紀元前208年にかけて生きた共和政ローマの政務官であり軍人である。第二次ポエニ戦争でハンニバルに対して果敢に戦いを挑み、「ローマの剣」と称された。名は「マルケルス」とも表記される。プレブス系クラウディウス氏族の出で、生まれつき頑強で戦を好んだが、戦場を離れると穏健で情が深く、ギリシア文化を愛したという。若い頃は第一次ポエニ戦争に従軍し、シキリア島でカルタゴ軍と戦って、兄弟を窮地から救ったと伝えられる。紀元前226年ごろにはアエディリス・クルリスと鳥卜官に就いた。アエディリスの任期中には、息子に言い寄った同僚のスカンティニウス・カピトリヌスを告発し、カピトリヌスは言い逃れを重ねたものの、最終的に有罪となった。

紀元前222年に執政官となると、ガリア・トランサルピナから引き入れられたガエサタエ族とクラスティディウム付近で戦った。敵の指導者ウィリドマルスと互いに姿を認めて駆け寄り、マルケッルスが討ち取った。剥ぎ取った武具を神々に捧げてスポリア・オピーマを得たが、これを得たのは3人目で、最後の例でもあった。その後、メディオラヌム(現在のミラノ)で苦戦していた同僚スキピオ・カルウスの救援に向かって同市を陥落させ、ローマに戻ると凱旋式を挙行したのは彼ひとりだった。

紀元前218年にハンニバルがイタリアへ侵入して第二次ポエニ戦争が始まった。カンナエでの敗北後、ローマはファビウス・マクシムスの持久戦法を採ったが、マルケッルスは大規模な会戦を避けながらもハンニバル軍に戦いを仕掛け続けた。第一次ノラの戦いの勝利は、ハンニバルにも勝てると示して、消沈したローマ人を勇気づけた。紀元前215年には補充執政官に選ばれたが、選挙に不備があって辞任し、プロコンスル格でインペリウムを保持して、ハンニバルとの小競り合いに勝った。

紀元前214年から212年までの足掛け3年は、ローマを裏切ってハンニバル側についたシラクサの攻略を担い、これを陥落させた。防衛にはアルキメデスが加わり、その考案した兵器にローマ軍は大いに苦しめられた。マルケッルスは市民の殺害を禁じ、略奪も財産と奴隷に限って最小限に抑えようとした。それでもアルキメデスは一人のローマ兵に殺された。連行を拒んで兵を激昂させたとも、高価な製図機器を奪おうとした兵との諍いによるともいう。マルケッルスはその兵を遠ざけたといい、荒れ果てた町を城壁の上から見て涙を流したという話も残る。4度目の執政官の任期中にシキリアの人々から訴えられた際には、同僚の帰還を待って裁判を行い、存分に不平を言えるよう計らった。シキリアの人々は自ら彼のクリエンテスとなることを申し出たという。

その後もマルケッルスは勝敗に関わりなくハンニバル軍を追い続けた。紀元前210年のヌミストロの戦い、紀元前209年のカヌシウムの戦いでは、ハンニバルと引き分けている。紀元前208年に5度目の執政官となったが、偵察中に伏兵に遭って命を落とした。前日に臓卜師が凶兆を告げていたのに、それを無視して出かけた結果だったという。プルタルコスによれば、ハンニバルは遺体に駆け寄って言葉を失い、丁重に火葬して遺骨を銀の壺に納め、息子のもとへ送らせたが、道中でヌミディア人に妨げられて遺骨は散乱したとされる。ハンニバルは「ファビウスは教師だがマルケッルスは敵だ」と語ったといわれる。プルタルコスは彼をペロピダスと対比し、キケロはウェッレスと対比して、私利のために収奪しなかった人物だとした。

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